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遺品 無言の証人

ケロイド語るもんぺ

「前向く力に」母託す 学徒動員先で大やけど負う

 あの日、学徒動員された少女がはいていたもんぺ。破れた部分は、熱線によるケロイドの痕と重なる。戦後も母が大切に保管し、これを見ればつらくても頑張れると「嫁入り道具」で持たせてくれた=2015年、隅本陽子さん寄贈。(撮影・荒木肇)

≪無言の証人・ぼろぼろの「嫁入り道具」≫
 原爆投下の日、12歳だった隅本(旧姓沢井)陽子さん(85)=広島市安佐南区=が2015年に原爆資料館に寄贈した、しま模様のもんぺ。同じ年に亡くなった母から22歳で結婚した時、手渡されたという。

 被爆して両足に残ったケロイドの場所を示すかのように熱線で焼け、破れている。ボロボロなのにしわがのびているのは、その母がきれいに洗い、大切に守ってきたからだ。

 「あんたが持ってなさい。これを見て思い出せば、少々つらいことがあっても頑張れるじゃない」。託された日の母の言葉を覚えている。晴れ着のようにきちんと包んであった。

 県立広島第二高女(現皆実高)の1年だった。学徒動員され、級友と爆心地から約2キロの東練兵場(現東区)で芋畑の草取りをしていた。ピカッと光り、気が付くと体がやけどで赤く腫れていた。服を脱いでリュックに入れ、下着姿のまま学校へ向かう。やけどをした太ももの水ぶくれが破れて靴に水がたまり、歩くたび「グジュ、グジュ」と音がしたという。

 被爆の翌日、母と再会したが約2カ月間、やけどで身動きが取れず、寝たきり状態になった。来る日も来る日も母が赤チンや天ぷら油を塗って、やけどの手当てをしてくれた。痛くて何度も泣き叫んだという。

 ケロイドのため皮膚が盛り上がった足。見られるのが恥ずかしく、若い頃はスカートをはかずズボンばかり。2児に恵まれる中で託されたもんぺも、たんすにしまい込んだままだった。「見ると思い出すでしょ。だから見たくない。もう幸せなんじゃから」と。

 年を重ねるに連れ、所々で記憶が薄れてきた。寄贈したのは「こんなぼろ布は死んだら捨てられる」という思いも膨らんだからだ。家族にもあの日の体験を語らず、前を向いて生きてきた隅本さん。今はもんぺにこんな願いを託す。「誰かが見て、こういう嫌なことはあっちゃいけんと悟ってほしい」(桑島美帆)

(2018年3月12日朝刊掲載)

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