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連載・特集

「お国のため」少女動員 第一県女の実態 皆実高同窓会が調査

10ヵ所判明 苦労浮き彫り

 皆実高(広島市南区)の同窓会が、前身の県立広島第一高女(第一県女)の卒業生を対象に、戦時下の学徒動員に関する調査をした。建物疎開に出た1年生223人が原爆で死亡したことが知られているが、上級生の動員などの詳細が分かり、資料集「広島第一県女の学徒勤労動員」で明らかにした。(桑島美帆)

 資料集はB5判、291ページ。同窓会「皆実有朋会」がまとめた。調査の軸となったのは当時を経験した卒業生760人へのアンケート。勤労奉仕や学徒動員で作業した場所、作業の内容などを尋ね、179人が回答した。一部の卒業生から直接、体験談を聞き取った。これまでの調査で当時の写真、女子勤労挺身(ていしん)隊員証など約150点の資料も寄せられた。

 その結果、10代の少女たちが国策によって戦時体制に組み込まれていった様子が浮き彫りになった。

病気の人多く

 1944年3月から閣議決定で学徒動員が「通年」に変わったのを受け、第一県女も6月以降、上級生から順次、呉市の第11海軍航空廠(しょう)などへ生徒を派遣する。校舎2階を陸軍被服支廠の分工場に改装し、教室にミシンを並べ、生徒たちが陸軍に納品する蚊帳やシャツなどを製造した。

 東洋工業(現マツダ)や南観音町(現西区)にあった広島印刷など、45年8月までの動員先は約10カ所に及ぶ。1年生が犠牲になった土橋町(中区)付近の建物疎開作業も含まれる。

 同窓会に寄せられた証言は、当時の苦労を伝える。「課せられたのは特攻隊員の鉢巻きの裁断。全神経を集中して作業した」「勢いづいた拍子に指を縫うことがあった。爪の穴から鮮血が盛り上がった」「緊張の連続で『お国のためなら、無理は当然。精神力でおぎなう』とされ、食糧事情も悪く病気になる人がとても多かった」

 こうした記憶に加え、調査を基に描いた各工場の見取り図も掲載した。

「模範県」自負

 日本全体でみれば、学徒動員については戦地に赴く大学生などに関心が集まりがちだ。高等女学校からの動員の実態については不明なことも多い。

 このため資料集は戦況が悪化した43年以降、国が相次いで出した学徒動員に関する法令や通達を背景として解説。陸軍の拠点があった広島県が学徒動員の「先進県」「模範県」を自負して農作業や災害復旧に、率先して中学や女学校から動員したことも触れている。

 発行の中心を担った皆実有朋アーカイブズ継承委員会の稲田修一委員長(74)は「証言を読むと、かなり悲惨な状況だったことがわかる。当時、生徒たちがどういう気持ちで働いていたのかを、後世に伝えたい。将来は資料館の開設も目指したい」と語る。

 資料集は同校の卒業生向けに700部を発行し、原爆資料館や広島市内の図書館に寄贈した。

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普通の授業 1年生だけ

元動員学徒 佐々木美代子さん(89)=広島市南区

 普通に授業があったのは1年生の時だけ。勤労奉仕が始まると、陸軍被服支廠で軍人の肌着のボタンを付ける作業をした。糸と木綿針を渡され、一日中働いたと思う。宇品の陸軍糧秣支廠へも行った。最初は1カ月に数回。徐々に増え、3年になると毎週のように勤労奉仕をした。英語の授業はなくなり、なぎなたなど武道の時間が増えた。

 4年生の1年間は一度も授業を受けた記憶がない。校舎の2階が工場になり、南方の戦地へ行く兵隊のために蚊帳を作った。ヒルが落ちてくるのを防ぐ蚊帳。マスクをしていても、みんな鼻の周りに緑色の塗料が付いた。毎朝起きたら鉢巻きを巻いてもんぺをはき、学校工場へ行く。朝7時半ごろから夕方まで黙々と働いた。「お国のため」と洗脳されていたからか、無理に働かされているとは感じず、苦しかったけれど楽しかった。

 「県女生の仕事はきちんとしている」と軍人に褒められたこともあり、「よその学校に負けられん」と必死だった。3年生の動員が始まった1944年10月には、代表で「壮行の辞」を読み上げたことがある。いよいよ下級生も動員されるんだな、と緊張した。

 振り返れば、憧れの県女に入ったのに学生らしい生活は全くできなかった。県女を卒業後は広島女子専門学校に入学したが、川内村(現安佐南区)へ移った工場にしばらく動員された。原爆で父を失い、戦後は生きるのに必死で勉強どころではなかった。あの時、もっと別の方向へ一生懸命だったら、と残念に思う。

    ◇

 佐々木さんの旧姓は足立。41年に第一県女に入り、終戦前の45年3月、4年生で繰り上げ卒業した。

<第一県女と学徒動員>

1901年12月 広島市下中町(現中区)で広島県立広島高等女学校創立
  38年4月 国家総動員法公布
  41年4月 県立広島第一高女に改称、校長を団長とする勤労報国隊が発足▽
       12月 日米開戦
  43年10月 勤労動員が教育の一環に。県女でも農作業や陸軍被服支廠の作
        業に加え、兵器支廠や糧秣支廠で作業開始
  44年3月 決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱を閣議決定。学徒動
       員が通年実施に▽5月 広島県庁に学徒勤労動員本部を設置▽6
       月 4年生が陸軍被服支廠の工場となった教室で働き、5年生は
       呉市の第11海軍航空廠へ▽8月 学徒勤労令と女子挺身勤労令
       を公布▽10月 3年生が陸軍被服支廠へ。2年生以下は農作業
       に参加
  45年3月 4、5年生が卒業、2年生に動員命令▽8月3日 義勇隊・学徒
       隊の疎開作業への大量投入決定、1年生に動員命令▽8月6日
        原爆投下で校舎は焼失、土橋付近で建物疎開作業中の1年生22
       3人が死亡。上級生、教職員を含め計301人が犠牲に

(2018年3月19日朝刊掲載)

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