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社説・コラム

『論』 「祖父のシベリア抑留」反響 語られぬ記憶 あまたある

■論説委員 森田裕美

 シベリア抑留を体験した祖父について書いた1月25日付「論」に多くの反響を頂いた。手紙や電話の多くは、祖父と同じ抑留体験者や、私のように「聞けなかった」と悔やむ子や孫世代から。自身や身内の手記を送ってくださった方もいた。極寒、飢え、重労働といった三重苦のみで捉えられがちなシベリア抑留だが、複雑で多様な側面があったことを学んでいる。

 陸軍工兵だった岩国市の藤本隆敏さん(91)を訪ねた。18歳で志願し、赴いた旧満州(中国東北部)で敗戦を迎え旧ソ連軍に連行された。地図を広げ、当時の様子を丁寧に語ってくれたところによると、藤本さんが連れて行かれたのはウラジオストクから約千キロ北の収容所。過酷な労働もさることながら、つらかったのは抑留者同士の関係だったそうだ。

 当初ソ連は旧日本軍組織を温存して作業に当たらせたため、収容所内には旧軍の秩序が持ち込まれた。元上官は下級兵に暴力を振るい、こき使った。しばらくしてソ連側の共産主義教育が始まると、今度は立場が逆転し、元上官らがつるし上げられた。「いつも強い者にいい顔をする人間が得をした」と苦々しげだ。48年にやっとの思いで帰国した日本は占領下。「シベリア帰りはアカだといわれ、就職も難しかった」と話す。

 体験を隠すつもりはなかったが、あえて人に話すこともなかった。「機会も相手もなくて。でも若い人にはこんな抑留を生む戦争はするもんじゃないと伝えたい」

 藤本さんのように、あえて体験を語ってこなかった人は多いのかもしれない。背景には、私も含め社会がきちんと向き合ってこなかった実情があるのではないか。このたび私の元にたくさんの手記が届けられたのも「知ってほしい」という気持ちの表れに思えた。

 忘却への懸念がにじむ手紙も多かった。三次市の滝口次郎さん(96)は「敗戦後に不条理にソ連に連行された事実が、これまで日ロ首脳会談などの外交や政治、研究の場でも十分に語られてこなかった」と問題視する。「戦後史の中で拭い去られているようで残念でならない」とあった。

 同市の95歳の男性からはこんな手紙も。「忘却のかなたと消え去れば亡き戦友は浮かばれない残念さでいっぱいでしたが、記事によって抑留者、無念の最期を遂げた者、無事帰国できた者ともどもうれしく思っています」

 遺族からは「語らなかった父を思い出した」「直接聞いておけば…」との声も多く寄せられた。尾道市の映画監督森弘太さん(80)は兄同様の存在だったいとこについて、「体験を聞いて記録に残さなかったことを後悔している」という。「彼にはもう聞けないが、抑留体験者はまだいる。いま一度この問題に注目し、掘り起こす最後のチャンス」と力を込める。

 元抑留者や支援者たちでつくる東京の「シベリア抑留者支援センター」を訪ねると、「記憶」の継承を困難にしてきた実情も見えてきた。

 一つには、「語られなかった記憶」があまたあるということだ。収容所での抑留者同士の足の引っ張り合いや、帰国後の差別といった問題も絡んでいるから。また敗戦後に旧ソ連の広域で続けられた抑留は、悲劇を象徴する日付や場所が一つではなく、社会に記憶が共有されにくかった。

 学術研究の分野も立ち遅れた。ソ連が国際法違反とされる抑留の資料を長く公開しなかったためだ。日本で2010年に成立したシベリア特措法は、日本政府に実態解明を課すものの、いまだ正確な被害者数さえつかめていない。

 「異国の地に抑留され、苦難の末に戻った母国はまた異文化だった。そんな抑留者が味わった不条理や葛藤も含め、日本社会はちゃんとケアすべきだった」とはセンターの有光健代表世話人の言葉。遅ればせながら、今からでもできることはあるはずだ。

(2018年3月22日朝刊掲載)

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