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社説・コラム

『言』 民団広島の70年 同胞社会の変容と向き合う

◆在日本大韓民国民団広島県地方本部団長 李英俊さん

 在日本大韓民国民団(民団)の広島県地方本部が発足して70年になる。冷戦時代には「反共」を掲げたが、今は在日同胞社会の多様化という内なる問題に直面する一方で、日韓関係の揺らぎに常に影響される立ち位置は変わらない。今後の民団の役割や日本社会との関わりについて在日2世の李英俊団長(56)に聞いた。(論説主幹・佐田尾信作、写真・田中慎二)

  ―草創期の民団は、戦前の日本に渡って苦闘した1世のよりどころだったでしょう。70年でどう変わったのですか。
 民団中央本部で今、議論しているテーマが「大統合」です。韓国籍をそのまま持つ人のほかに、日本国籍に変えた人、本国から新たに定住した人など、在日同胞社会は多様化しています。ならば役員の国籍条項など制約を緩めてはどうか、という提案が出てきたのです。

  ―従来にはない、大胆な問題提起ではありませんか。
 一種のカルチャーショックです。従って議論は終わっていません。今後、組織内の誰が聞いても納得できる制度を整える必要がある。遮二無二急ぐわけではないけれど、民団が従来の体制をかたくなに守るだけでは生き残れないのが現実です。

  ―在日同胞社会の多様化とは時代の流れでしょうね。
 そうですね。戦前から日本に住んで「特別永住者」の法的地位にある人は、民団と朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)合わせて34万人足らずですが、在日同胞全体は100万人に達し、なお増えています。問題は多々ありますが、欧米先進国は移民を受け入れて国力を維持しています。新たな働き手を求めて同じ道を日本がたどるなら、私たちをモデルとして日本社会の「よりよい変わり方」を、ともに模索できるはずです。

  ―一方で民団は地方参政権の獲得を目指してきました。
 ことしは金大中(キム・デジュン)大統領と小渕恵三首相(いずれも当時)による「韓日共同宣言」から20年の節目でもあります。小渕さんの辞職と急死がなければ、両首脳の約束でもあった地方参政権は実現していたはずです。

  ―やがてヘイトスピーチの集団が「嫌韓」をあおり、不穏な空気が生まれましたね。
 私たちも求めてきたヘイトスピーチ対策法は一昨年成立しましたが、まさか、あのような集団が現れるほど、日本社会のたがが外れるとは思いもしませんでした。子や孫の代に、どんな目に遭うか分からない。ジャーナリストも含めて明確に否定してくれないと駄目です。

  ―今は権利を主張しにくい空気があるのでしょうか。
 ですが、地方参政権を諦めてはいません。趣旨を再び説明して前へ進まなければならない。ゴルフ場に例えれば、メンバーフィ(会費)を払っているのにプレーできないのはおかしい。納税の義務を果たしている市民としての正当な位置付けを日本政府に求めていきます。

  ―民団は日韓関係の波風を受けやすい立場ですが、韓国に明確な物言いもしました。
 呉公太(オ・ゴンテ)・前中央本部団長は「慰安婦問題」に関する韓日合意を評価し、その誠実な履行を求めてきました。昨年は新年会あいさつで、釜山・日本総領事館前の慰安婦少女像は撤去すべきだと明言し、一時物議を醸しました。本国にたてつく意図ではない。民団は在日同胞の日々の暮らしを守らなければならない、韓日関係がぐらつくと大変な思いをするのは私たちだ、という訴えだったんです。

  ―民団広島は原爆被害という特異な歴史を持ちます。どのように伝えていきますか。
 一昨年、オバマ米大統領(当時)が平和記念公園で演説し、朝鮮半島出身の原爆犠牲者について、広島市の見解に基づき「数千人」という表現をしました。公園内に移設して来年20年になる韓国人原爆犠牲者慰霊碑に刻んだ「李鍝公ほか2万余霊」と開きがありすぎて、許し難い。

 軍都広島には故郷からの家族呼び寄せで多くの同胞が渡り、さらに戦時下の国民徴用令で軍需工場や建物疎開作業への強制動員もありました。真相を追った諸先輩の遺志を踏まえ、いま一度犠牲者数を精査したいと考えます。曖昧な歴史のままでは後世に引き継げないのです。

イ・ヨンジュン
 本籍は韓国慶尚南道星州郡。兵庫県伊丹市生まれ。在日1世の父親が営んでいた土木請負業の関係で広島県内に移り住む。在日本韓国青年会中央本部勤務などを経て広告代理店リーズプランニング創業。民団広島県地方本部では議長を経て16年から現職。85年に東京都港区役所で外国人登録証への指紋押なつを人権侵害だとして拒否した。

(2018年3月28日朝刊掲載)

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