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社説・コラム

評伝・松原美代子さん ヒロシマ証言活動貫く

 広島の被爆史を体現した証言者が逝った。松原美代子さん(85)である。「原爆乙女」と呼ばれたころから身をもって実情を伝えた。東西冷戦下に米ソ両国などを「平和巡礼」し、市民が描いた「原爆の絵」を国連本部前でも展示した。市が2012年に始めた「被爆体験伝承者」の養成にも最期まで努めた。

 「あのときに命ながらえた私は、亡くなられた人達(ひとたち)のためにも生き続けて、『ヒロシマ』を代弁しなければならない」。自身が50歳のころに書き残した思いだ。

 1945年8月6日、広島女子商1年生だった松原さんは建物疎開作業中の鶴見町で閃光(せんこう)を浴びた。爆心地から約1・5キロ、現場にいた2年生と共に死者は329人を数えた。原爆症を初めて診断した東京帝大の都築正男が率いた「原子爆弾災害調査事項」(10月29日付)には、松原さんの被爆状況も記されている。全身の30%にやけどを負っていた。

 回復しても左まぶたは閉じられず、右肘や両小指は伸ばせなかった。作家や映画俳優らが支援した原爆乙女の治療に選ばれ、20歳の年に大阪で計10回の手術を受けた。退院後は広島市内の視覚障害者施設で働き、原水爆禁止運動の高まりから56年に製作された記録映画「生きていてよかった」でも取り上げられた。

 自らの意思で進んで語るようになったのは、バーバラ・レイノルズとの出会いと励ましからだろう。

 米国が設けた原爆傷害調査委員会(ABCC=現放射線影響研究所)に夫が赴任した、クエーカー教徒のバーバラは被爆者の苦難に向き合う。ヒロシマを世界に伝える平和巡礼を62年に私財を投じて実現させた。

 松原さんはバーバラとの3人で米英仏ソ連など14カ国を回った。64年の巡礼にも参加した。さらに東西両陣営の核軍拡が激しくなった82年、米大陸を横断して各地で証言した。学習を続けた英語で原爆投下を是とする声にも立ち向かった。99年には若者らの協力でホームページを開設。動画中継で被爆体験を、平和への願いを語った。

 私生活では亡き兄夫婦の子ども3人を育てた。喪主を務めたおいで、広島大大学院の松原昭郎教授(59)は「原爆の話は私らにはしなかったが、証言に使命感を覚え生きがいにもしていた」と語った。

 松原さんの伝承者でもある伊藤正雄さん(77)は、「核兵器の廃絶に一生をささげた」としのぶ。「人間は忘れやすいから伝えんといけんのよ」が口癖だったという。原爆犠牲者を忘れず、生き残った者の務めを実直に歩んだ人生だった。(特別編集委員・西本雅実)

(2018年3月30日朝刊掲載)

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