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「呉海軍工廠の形成」 呉海軍工廠 形成過程は 広島国際大・千田客員教授が刊行

武器移転など網羅的分析

 広島国際大の千田武志客員教授(71)=呉市=が、明治後期に呉海軍工廠(こうしょう)が成立するまでの過程をまとめた「呉海軍工廠の形成」(写真・錦正社)を刊行した。戦艦「大和」の建造に代表される日本最大の造船所に発展した工廠の前史について、膨大なデータを駆使。高水準の技術を獲得した経緯や、前身となる組織の実態を網羅的に分析した労作だ。

 政府は1889(明治22)年、海軍の地方統括機関として呉鎮守府を開庁。本書によると、当初から艦艇の国産化を目指し、天然の要害である呉港を日本一の造船拠点にする考えがあったという。呉鎮守府は兵器製造を担う造船廠と造兵廠を備え、1903(明治36)年、両者が合併して呉海軍工廠が発足する。

 本書が力を入れるのは、欧米からの兵器製造技術の受容、すなわち「武器移転」の仕組みの解明だ。武器移転は国際政治学の用語で、武器の輸入や製造技術の学習など、先進国からの武器の拡散を幅広く指す。この概念を導入し、呉海軍工廠の技術獲得の在り方を、国際情勢や関係国の戦略などさまざまな側面から説明しようと試みている。

 日本は技術と国力が不足していた明治初期、英国などから艦艇を購入。呉に先行して整備されていた横須賀(神奈川県)や神戸の造船所で、改修を通じて技術者に造船技術を習得させた。その後、習熟した技術者を呉に移すことで、短期間に最先端の技術を普及させることに成功した。

 こうした武器移転を促した背景を、「送り手」の事情からも考察。後発の兵器会社だった英アームストロング社は、受注を伸ばすため技術を積極的に開示する営業努力に取り組み、英政府も移転相手国を自陣営に囲い込むためや産業振興のため、黙認したことを示した。

 当時の日本の軍備拡張計画の検討も興味深い。海軍は戦艦の自国生産という長期目標を立て、多くの短期計画を段階的に進めることで「驚くほど短期間に」実現したという。

 一方、財政や政治、外交との整合性はあまり意識されず、最新兵器の保有自体が目的の「戦略なき軍備拡張」に進む危険があったと指摘する。総力を挙げて「大和」を建造しながら、効果的に運用できなかったその後の歴史を暗示するようでもある。

 836ページ、1万800円。(城戸良彰)

(2018年4月5日朝刊掲載)

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