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「原爆の絵碑」 継承願う 描いた地に故早坂暁さんら設置 再開発で「現在地」求める

八つ目のエソール広島

 昨年12月に88歳で亡くなった脚本家の早坂暁さん。生前の平和への願いを伝えるモニュメントが広島市内に点在する。被爆者が惨状を描いた絵を陶板にし、その場所の近くに置く「原爆の絵碑」だ。2006年までに10カ所を数えたが、設置した施設の建て替えや移転も相次ぐ。後を継ぐ人たちは元の場所での継承を願っている。(山本祐司)

 碑を置いたのは02年に早坂さんが発足させ、死去まで会長を務めた「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」。記憶の風化を防ぐ運動で、設置場所の協力を得ながら輪を広げた。

 廃止、解体が決まった中区富士見町の広島県女性総合センター「エソール広島」の壁にも、8番目の絵碑が据え付けられている。県立広島工業学校1年だった安芸区の原広司さん(86)が原爆投下翌日の富士見町、宝町で見た光景を描いた。真っ黒になって逃げ惑う人々、何人も折り重なり倒れていた焼け跡―。

 この絵碑は、最初は05年に県歯科医師会館前に置かれた。会館の移転に伴い17年4月、すぐ隣の現在地に移された経緯がある。その時は歯科医師会側が趣旨を理解し、近隣の受け入れ先を探してくれた。

 今度は県が主導し、官民で多機能型ホテルを誘致する一帯の再開発プロジェクトに伴い、またも絵碑の場所探しを余儀なくされる。

 同会は今年1月、再開発後も同じ場所に再設置されるよう求める要請書を県に提出した。県としてもホテル事業者が決まる5月末以降、事業者に伝えて理解を求めるという。難色を示した場合、近くに代替地を探すことも視野に入れる。

 同会によると敷地内に絵碑を設置した広島共立病院(安佐南区)、広島赤十字・原爆病院(中区)、福島生協病院(西区)で13年以降、それぞれ新棟の建設に伴い、扱いが検討された。共立病院は元のまま残した。赤十字病院は隣接の日赤県支部敷地に設けた「メモリアルパーク」に、生協病院は敷地内の別の地点に移し、絵で描かれた場所に置く趣旨は守られた。

 ただ設置から十数年、このようなケースは今後も生まれる可能性がある。

 松山市出身の早坂さんには妹がいた。実家から防府市にいた自分を訪ねる途中に広島で原爆に遭ったとみられ、その無念を忘れなかった。脚本を手掛けたドラマ「夢千代日記」などの作品に加え、被爆地広島での絵碑の活動に取り組んだ。

 その死後、会長となった広島県生協連合会の岡村信秀会長理事は「日常の暮らしが一瞬に破壊されたことを伝えるのが活動の原点。被爆者が描いた絵はメッセージ力が強く、碑は日々の中で市民が語り合うきっかけになるはず」と、あらためて意義を強調する。

(2018年4月23日朝刊掲載)

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