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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第56号) 原爆の子の像と私たち

 多くの子どもが集まって祈(いの)り、平和な未来を誓(ちか)う場が広島市中区の平和記念公園にある「原爆の子の像」です。12歳で白血病のため亡くなった佐々木禎子さんの同級生たちが提案し、原爆の犠牲(ぎせい)になった全ての子どもを慰霊しようと、1958年5月5日に除幕されました。

 完成から60年のことし、運動を始めた子どもたちと同世代のジュニアライターは像が建てられるまでの道のりや、SADAKOの物語が海外へ伝わったその後を学びました。ひろしまフラワーフェスティバル(FF)のステージでも発表しました。

 今月5日にあった60周年の記念式典に参加した先輩(せんぱい)たちにも思いを聞き、ヒロシマの若い世代がどうやって受け継いでいくかを考えました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学、高校生の25人が自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

サダコの祈り 仲間と受け継ぐ

◆FFステージで発表

相手に寄り添う心 大切 60年の「あしあと」に学ぶ

 真っ青な空と新緑が広がったゴールデンウイーク。ジュニアライターはFF会場となった広島市中区の平和大通りのステージで、「原爆の子の像60年」をテーマに発表しました。手作りの写真パネルをアルバムに見立て、佐々木禎子さんと子どもたちの「あしあと」をたどりました。

禎子さんってどんな子?

 2歳で被爆した禎子さんは「黒い雨」に打たれましたが、体を動かすのが得意な少女でした。幟町小(現中区)6年の時、クラスの絆を強める出来事がありました。秋の運動会のクラス対抗(たいこう)リレー。毎日放課後に居残り練習した結果、チームワークを高め念願の優勝。みんなの気持ちがまとまった成果でした。

 しかし翌年、禎子さんは体調を崩し入院します。白血病―。その病名が本人に知られないよう、周囲は振(ふ)る舞(ま)いました。それでも自らの病に気付いた禎子さんは、生きたいという希望を胸に鶴を折り始めました。

 しかし被爆から10年後の1955年10月25日、ついに帰らぬ人に。知らせを聞いた級友たちは、悲しみと後悔(こうかい)の念を募(つの)らせました。見舞いに行こうと「団結の会」をつくっていましたが、中学生活が忙(いそが)しくなるにつれ、足が遠のいていたからです。この思いが運動を生んでいきます。

広がる運動

 2週間後、友人らは「原爆の子の像」を建てようと動き始め、寄付を呼び掛(か)けるビラ2千枚を自分たちで刷りました。広島で開かれた全国の中学校長の会議で配ると、読みもせず捨てる先生もいましたが、「応援(おうえん)するよ」とその場でお金を渡(わた)す先生も。活動は全国、海外に広まり、約540万円が集まりました。

 そして迎(むか)えた58年5月5日、平和記念公園に像が完成しました。像のてっぺんの折り鶴をささげ持つ少女は、平和な未来への夢を託(たく)し、左右の少年と少女は明るい未来と希望を象徴(しょうちょう)しています。

SADAKOの物語

 禎子さんと子どもたちの思いは、なお広まります。このエピソードをつづった本が多く出版され、広島のNPO法人なども各国の言葉に翻訳(ほんやく)し贈(おく)っているからです。

 共感を呼び、世界各地にモニュメントや公園などが造られましたが、現地の人たちの感情が複雑に交差した例もありました。米国南西部のニューメキシコ州にある「子どもたちの平和の像」です。募金(ぼきん)活動で完成しましたが、原爆開発の中心になったロスアラモス市や周辺の市の間で設置場所が問題となり、3回も移転しました。

 禎子さんたちの平和の願いは、多くの人たちの胸を打ちますが、広島に暮らす私たちも相手の考えを理解し、寄り添(そ)う気持ちが大切と思います。(高2平田佳子、藤井志穂、池田杏奈)

手作りキーホルダー

平和への願い 鶴に込め

 私たちは折り鶴と花の絵をあしらったキーホルダーを一つ一つ作りました。FFのテーマに合うよう鶴が花をくわえ、羽ばたくデザイン。平和への思いが鶴とともに広がるモチーフを身近に置いてほしい―。そんな願いを込(こ)めました。(高1佐藤茜)

建立60周年記念式典

核の恐ろしさ伝える決意

 像の建立60周年の記念式典には、ヒロシマの子どもたちの願いを伝えていこうと励(はげ)む大学生たちの姿がありました。

 FFの会場で折り鶴を呼び掛け、像にささげた広島女学院大(広島市東区)4年の長崎まりなさん(21)は「他県や海外の人も喜んで協力してくれた。会員制交流サイト(SNS)も使い世界に知ってもらえるよう継続(けいぞく)して頑張りたい」と意気込んでいました。

 そんな若者たちに、あいさつした広島YMCA(中区)理事長の黒瀬真一郎さん(77)は期待します。広島女学院中高で教えていた時代、故河本一郎さんと職場が同じでした。像の設立を子どもたちと呼び掛けた人です。「当時の子どもたちの思いは若い世代に受け継がれている。未来を生きる子どもの命が再び犠牲になってはならない」

 次は私たち10代が、原爆の子の像に込められた願いを世界に広める番です。折り鶴や絵本などをきっかけに核兵器の恐(おそ)ろしさを訴えていきたいです。(高2鬼頭里歩)

幟町小の同級生 川野登美子さん

等身大の「禎ちゃん」聞く

 「像にかけられた白い布が静かに引かれ、5月の青空に美しい少女像が姿を現しました。私は、力いっぱい拍手(はくしゅ)をしました」。佐々木禎子さんと幟町小の同級生だった広島市中区の川野登美子さん(75)は、自ら書いた本「原爆の子の像 6年竹組の仲間たち」の中で、像が除幕された光景をこうつづっています。当時の話を聞きました。

 川野さんは「禎ちゃん」とリレーで走ったことを笑顔で話してくれました。しかし、禎子さんの入院を知った時の話になると、急に表情が曇(くも)りました。

 担任の先生から「佐々木は原爆の病気になった」と聞いた時、「禎ちゃんがかわいそう」と思うと同時に「もし私だったら…」と言葉を失ったと言います。3歳で被爆した自分にも、死の恐怖(きょうふ)が忍(しの)び寄ったように感じられたからです。

 禎子さんが亡くなる直前の夏に見舞いに行った時、禎子さんの手足に赤い斑(はん)点を見つけました。自分の視線に気付いた禎子さんは、慌(あわ)てて布団で隠(かく)したそうです。「その日が最後のお見舞いに。もっと頻繁(ひんぱん)に行っておけばよかった」。声を詰まらせます。

 川野さんの話の中に現れた等身大の「禎ちゃん」。自分と重ね、平和を考えるきっかけをもらえた気がしました。(高3沖野加奈)

(2018年5月17日朝刊掲載)

【編集後記】
 FFのお土産は、毎年私たちジュニアライターが心を込めて用意しているのですが、私は今年、そのキーホルダーのデザインを考えさせてもらいました。私は日ごろ、「平和について発信する方法はさまざまで、自分のできることから始めればいい」ということを念頭に置いて活動しています。このお土産作りでは、まさに自分のできることで貢献できたのではないかと思います。(佐藤)

 佐々木禎子さんの物語は学校でも多く取り上げられ、とても有名です。そのため、どこか遠い人のように感じていました。今回、川野さんにお話を伺う中で私たちと同じ、広島に住む小さな女の子、「偉人」でない禎子さんと出会いました。面倒見の良いしっかり者の禎子さん、男子が青ざめるほどスポーツが得意だった禎子さん。話を聞くうちに、不思議と禎子さんが自分の友達のように思えてきました。私には小学生のいとこが4人いますが、親しみを持って「禎ちゃんはね」と思い浮かべるような感覚で「原爆の子の像」の話をしたり、一緒に平和を考えたりしていきたいです。(沖野)

 「原爆の子の像」60周年の式典を取材した時、見学していたポーランド人の男性は、こう話していました。「式典を若者が主体となって開いていることに驚いた。歴史を語り継ぐ大切さを自分の子どもたちにもしっかりと伝えたい」。大学生たちの活動が、まさに世界に広がっていこうとする一つの象徴のようでした。小さな力でも、合わされば世界を動かすことができる―。自分たちも、そう信じて努力していこうと思います。(鬼頭)

 FFステージで、川野さんの著書から「原爆の子の像」除幕式の一節を朗読しました。読んでいる時は、言葉がハッキリと聞こえるように、また自分が思いを込めすぎないように、必死に気をつけました。皆さんに想像してほしかったからです。当時の10代が提案したことで、像が完成したことは、「すごい!」と感動します。今も若者たちの平和活動は、高校生の署名運動など、たくさんあります。どんな年齢でも、行動に移せば、世界は変えられるかもしれません。(藤井)

 「原爆の子の像」の話は広まりつつありますが、世界中の人々が「平和」に向ける視点はいろいろ異なっていて、複雑だと知りました。私たちが今できることは、世界でいろんな人が続けている平和活動について知り、理解するために情報を得ることだと思いました。まずは相手を理解することが、共感を呼ぶ一歩になるのではないか、と思っています。(池田)

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