社説・コラム

天風録 『村井志摩子さんの89年』

 90歳の被爆者細川浩史(こうじ)さんは20年余り前、聞き慣れぬ声の主から電話を受けた。村井志摩子と名乗ったその人が、高名な劇作家だと気付いて面食らったのを、先日の訃報に接して思い出したという▲電話の用件は、細川さんが出版した「広島第一県女一年六組 森脇瑤子の日記」のことだった。爆心直下での建物疎開作業中に被爆死した妹の瑤子さんが、8月5日までつづっていた日記。世に出すに至った細川さんの心の内を聞きたかったようだ▲あるいは「生き残り」として、分かち合いたい苦悩があったのかもしれぬ。敗戦の年の春、県女を卒業した村井さんは東京の大学へ進んだ。自らは被爆を免れたものの、多くの友や後輩を亡くし、生きていることが、負い目となった▲だが、被爆者とて「生き残り」は同じ思いだったろう。記憶を語らぬまま次々亡くなる現実を前に、村井さんが心の整理をつけたのは40年もたってから。原爆に狂わされた人生を描く「広島の女」シリーズなどに思いを託し、国内外で上演を続けた▲今も癒えない痛みや苦しみに、目を背けず向き合うのが私の仕事―。そう語り晩年も病を押して朗読劇に挑んだ。言葉通りの89年の生涯である。

(2018年5月12日朝刊掲載)
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