無言の証人

弁当箱と砂

遺骨代わりの一握り

学徒動員の中1 捜した父の無念

  建物疎開作業に動員された中学生のわが子を捜した父が見つけたのは、見覚えのある弁当箱だった。その場所近くで拾い集めた砂を入れて持ち帰った。中には米粒も交じる。どんな気持ちで砂を握り締めたのだろう。劣化が進むため、数年前から弁当箱と別に保管されている=1995年、竹田俊二さん、昭義さん寄贈。(撮影・高橋洋史)

 黒く焦げ、側面に穴が空いたアルミ製の弁当箱。中に入れていた一握りの砂とともに、原爆資料館に託されたのは被爆半世紀という節目の年だった。

 持ち主は竹田雅郎さん。広島二中(現観音高)の1年生だった。1945年8月6日朝、建物疎開作業に参加するため爆心地に近い中島地区にいた。頭上で原爆がさく裂、同級生320人とともに猛火にのまれ、吹き飛ばされた。

 父の俊二さん(2001年に97歳で死去)は翌日から広島県根野村(現安芸高田市)の自宅を出て、焼け野原でわが子を捜した。そして本川の川岸近くで弁当箱を見つける。周りの砂を入れたのは遺骨代わりに、と思ったからだ。

 最期を伝え聞いたのは8月末。二中生の数人と一緒に少し離れた寺にたどり着き、被爆2日後に息を引き取ったという。以来、俊二さんは、家族の前でも雅郎さんについて語ることはなかった。「少しでも聞こうとすると怒りだした」。終戦約1カ月後に生まれた弟の雅博さん(72)=神戸市=は振り返る。

 砂の入った弁当箱も新聞紙に包んだまま、ずっと蔵にしまわれていた。原爆資料館に託したのはその父が老い、長兄で中国新聞社製作局長を務めた昭義さん(11年に81歳で死去)が先を案じたからだ。

 資料館には弁当箱の遺品がほかにもあり、展示される機会は少ない。兵庫県で平和活動に携わってきた雅博さんは毎年8月、収蔵庫から兄の弁当箱を特に出してもらい、希望者に見てもらう「展示会」を2年前まで続けた。「兄は12歳で原爆の憂き目に遭った。二中の1年生は一人も助からず、遺品もほとんど残っていない。原爆とはそういうものだ」と訴えるために。

 安芸高田市内の一家の墓には雅郎さんにささげた両親の句碑が寄り添う。「親として 親らしきことも しもえせで 逝きし いとし子よ ゆるせこの親」(桑島美帆)

(2018年5月14日朝刊掲載)
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