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無言の証人

わが子をくるんだ暗幕

大やけど 抱えて逃げた 「水あげなかった」母は悔やみ続けた

  広島駅で原爆に遭った母子。母は落ちていた駅舎の暗幕で、傷ついた息子をとっさにくるんで逃げた。その日の晩に息を引き取ったわが子は、やけどの血がパンツを染めるほど傷がひどかった=2005年、太尾田(たおだ)れんさんが原爆資料館に寄贈。(撮影・高橋洋史)

 その暗幕は子どもをすっぽり包むほどの大きさだ。被爆した幼子がはいていたというパンツを添えてみると、あの日、抱えて逃げた母の気持ちが伝わってくる。

 寄贈者の太尾田れんさんは30歳だった時、呉の海軍病院に入院していた夫を見舞いに行った帰り、原爆に襲われた。広島駅(広島市松原町、現南区)で市内電車に乗り換えようと、2歳だった次男の洋夫ちゃんをおんぶして、停留所に向かっていた時だった。

 爆心地から約1・9キロ。母子ともに駅舎まで吹き飛ばされた。気を失ったれんさんは、洋夫ちゃんの泣き声で意識を取り戻す。2人は熱線を背後から浴び、ひどいやけどを負っていた。

 千田町(現中区)の自宅へ戻ろうにも、中心部は壊滅状態。そのうち、救援のトラックに乗せられ、救護所になった国民学校へ運ばれた。洋夫ちゃんは「水がほしい」とせがんだが、れんさんには与えられなかった。水を飲ませたら死ぬ、と聞いていたから。自分も痛みと闘う中、被爆当日の夜、洋夫ちゃんをみとった。火葬し、遺骨を持って帰宅した。

 泣き声を上げた息子に助けられた思いと、その息子に水を飲ませなかった後悔は絶えなかった。そのつらさか、記憶を語ろうとしなかった。

 洋夫ちゃんの姉の長谷部松子さん(79)=京都府宇治市=が約30年前、自身の被爆体験を語ろうとした時、れんさんが「これと一緒に話して」と出してくれたのが、この暗幕とパンツだった。2009年に94歳で亡くなった母は被爆60年の年に原爆資料館へ託すまで、手元に残していた。

 松子さんは毎年夏に広島へ帰った時、原爆資料館に頼んでこの遺品を出してもらう。「見ていると、幼かったのによく頑張ったなと涙が出てくる」。家の中を駆け回って遊んだ弟との思い出は今も鮮やかだ。(山本祐司)

(2018年6月12日朝刊掲載)

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