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ひろしま国 8・6探検隊 原爆の犠牲者数なぜあいまいなの <上>

 
Q 広島に落とされた原子爆弾でいったい何人が亡くなったのか、なぜいまだに正確に分からないのでしょうか。

市推計は14万人だけど…

 人の命は地球よりも重いって言うよね。大事な質問だ。調べるため、まず広島市中区の原爆資料館に行ってみた。

 展示パネルでは、一九四五年十二月末までの原爆による推定(すいてい)死亡者数を「約14万人(誤差(ごさ)±1万人)」と紹介している。つまり十三万から十五万人の間ということ。二万人もの命がはっきりしないことになる。何でそんなことになるんだろう。不思議(ふしぎ)だよね。

 この根拠について、市原爆被害対策部は「七六年に、市が国連事務総長(じむそうちょう)に核兵器廃絶(はいぜつ)などの実現を目指すよう要請(ようせい)したときに、専門家を集めて調査研究した結果の数字」と説明する。

■「20万人以上」も

 最近の高校の教科書を調べてみると、この数字を根拠としたと思われる「原子爆弾による1945(昭和20)年12月までの死者は、広島で約14万人」という記述や、「被爆直後から5年間に、広島では20万人以上(中略)の市民が死亡」など、期間や人数がばらばらだ。時期を特定せずに「およそ12万人の命をうばった」とするものもあった。

 「20万人以上」の根拠を探してみると、市が五三年に「約20万人」と推計していることが分かった。「原爆被爆者対策事業概要(がいよう)(平成十八年版)」にそう記され、説明がしてある。

 被爆当時に広島市にいたと推定される人口四十二万人から、五年後の全国調査で「当時広島市に居住(きょじゅう)していたか」を尋(たず)ね、生存が確認された約十五万八千人を引き、そのほかの資料を考慮(こうりょ)した数字だという。

 ところが、数年前にさかのぼってこの事業概要を見てみると「約20数万人」になっている。いつの間にか「数万人」が消えたことになる。

 キツネにつままれた気分で、五三年の中国新聞を取り出してみた。「二十数万名」と、市の発表を伝えている。「広島県史」原爆資料編もこの記事を引用し、数万人多い。

 頭がこんがらがるので市の出している数字を、一度整理してみよう。原爆が投下された四五年の年末までには十三万から十五万人が亡くなり、五年後の五〇年までには二十万から二十数万人が死亡したということだ。いずれにせよ、なぜこんなに差がでるのか、理解しづらいよね。

 そう考えていると、また別の数字が出てきた。

■名前の多く不明

 二〇〇六年八月六日現在、市の原爆被爆者動態調査(どうたいちょうさ)事業によれば、四五年十二月末までに亡くなった人のうち名前が分かっているのは、八万八千九百七十九人だという。推定死亡者の最少の十三万人から引いても、四万人以上の差がある。被爆六十二年を迎えて、そんなに多くの人が命を失ってなお名前が分かっていないということなのだろうか。

 市原爆被害対策部の松村司部長は「約十四万人(誤差プラスマイナス一万人)は推計に過ぎない」とした上で、「この数字がどういう経緯で決まったのか、すぐには分からない。詳しく調べてみたい」と話す。ここから先は、次号で紹介するね。(森岡恭子)

 読者の質問などをもとに中国新聞の記者が探検報告をします

なるほどキーワード

原爆被爆者動態調査事業
 1976年に終了した8年にわたる「原爆被災全体像調査(復元調査)」などを受け、2010年度まで市が続けている原爆死没者調査。過去の被爆者調査や各種資料にある被爆者の名前をコンピューターに入力し、重複分を除きながら、1945年12月末までの死没者数をカウントしている。

(2007年2月26日朝刊掲載)

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