×

ヒロシマを学ぶ 関連記事

ドーム、世界史の証人に 厳島神社と同時遺産登録 中国、賛否を留保 米は不支持

 被爆の惨禍を刻む「原爆ドーム」(広島市中区)と海上に朱色の鳥居が映える「厳島神社」(広島県佐伯郡宮島町)が、六日、そろって世界遺産への登録が決まった。世界遺産の登録は昨年までに四百六十件を超え、国内にも姫路城(兵庫県)や法隆寺(奈良県)など六件あるが、一つの県からタイプの違う世界遺産のダブル登録は初めて。小杉隆文相は「原爆ドームは人類共通の平和記念碑。厳島神社は独特の景観をつくり出す文化遺産。今後とも保存・保護に一層尽力したい」と強調。被爆者や地元関係者も「長年の願いが通じた」と喜んでいる。

 「原爆ドーム」と「厳島神社」は、メキシコのメリダ市で開かれているユネスコの第二十回世界遺産委員会で五日(日本時間六日未明)、世界遺産に登録されることが決まった。今回は、日本の二件を含め二十四カ国から三十七件の推薦があった。

 文化庁によると、原爆ドームをめぐって対応が注目された米国は、採決は黙認したが登録決定後に戦争遺産に対する取り扱いの見直しを求めるとともに「日本とは友好関係にあるが、今回の決定は支持できない」と発言した。中国は決定前に支持、不支持の判断はしないと賛否を留保した。一方の厳島神社はすんなり登録が決まり、会議では数カ国の代表から「素晴らしい文化財」「世界遺産にふさわしい」などの意見が出たという。

 世界遺産リストに登録される範囲は、原爆ドームが、被爆当時の惨状を伝える建物と敷地約〇・三九ヘクタール。厳島神社は社殿を中心にした建造物群と前面の海の一部、背後の弥山(みせん)を含む山林の計四三一・二ヘクタールが対象となる。

 登録に伴い、設置が義務付けられている緩衝地帯(バファーゾーン)は、原爆ドームが平和記念公園全体とそばを流れる元安川や本川の河岸など周辺の計四二・七ヘクタール。厳島神社は厳島全島と海面の一部計二六三四・三ヘクタールとなっている。

 原爆ドームの前身は、旧広島県産業奨励館。一九六六年に広島市議会が永久保存を決め、過去二回の保存工事が行われている。政府は昨年三月、近代の遺跡の国史跡指定ができるよう指定基準を改正し、同六月、文化財保護法に基づく史跡に指定。「時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑」として推薦していた。

 第二次世界大戦にかかわる戦争遺跡の世界遺産は、ポーランドの「アウシュビッツ強制収容所」に次いで二番目。今回のドームの登録で、核兵器の惨禍を世界に訴える平和発信の拠点としての役割が一層期待される。

 厳島神社の建物群は、本社本殿など国宝六棟と、大鳥居や五重塔、能舞台など十四の国重要文化財がある。「緑に覆われた山容を背景に、海上に鮮やかな朱塗りの宗教建築群を展開するという、独特の景観をつくり出している」と推薦された通り、自然と建物群の一体的価値の高さが世界遺産として評価されたとみられる。

 文化庁は昨年九月、原爆ドームと厳島神社を世界的に貴重で保護すべき遺産として、文化財保護審議会の了承、政府決定を経てユネスコ世界遺産センター(パリ)に推薦。二十一カ国で構成する世界遺産委員会が国際記念物会議(ICOMOS)に依頼し、登録すべきかどうか調査していた。

 国内法での保護が十分であることが登録の条件で、既に文化財保護法の適用を受けているため、文化庁は今回の登録を機に新たな規制、補助などの保護措置は取らない方針でいる。

「平和」「文化」継承 新たな責務 原爆ドーム 崩落防止策 なお手探り 周辺の景観保持も課題

 ほぼ真上からの爆風、熱線で破壊された原爆ドーム。そのままの姿を後世に語り継がなければならない「生き証人」にとって、どう永久保存するかは難題だ。

 一九六七(昭和四十二)年と八九(平成元)年。広島市は過去二回、レンガのひび割れや目地に樹脂を注入する補強工事を施してきた。当時は画期的な方法といわれたが、最近になって新たなひび割れを招くと指摘され始めた。風化の原因となる主な要素は、風、水、気温の変化、酸素、紫外線、震動…。これら自然現象から、ドームを完全に守る術は見つかっていない。

 国の史跡に指定された昨年六月以来、保存管理計画を検討している市教委文化課の本多正登課長は「ドームは破壊された状態で保存することに価値がある。崩落の危険性は広島城など他の文化財より高く、数百年の将来にわたり保存する方法は今のところない」と話し、当面は補強工事を繰り返す方針だ。

 一方、周辺の景観の課題も多い。市は昨年九月、原爆ドームと平和記念公園周辺の建物のデザインや色を指導する「美観形成要綱」を制定。世界遺産化へ向け、公園を含む四二・七ヘクタールの緩衝地帯(バファーゾーン)内の建物所有者三百四十人に、説明会などで協力を呼び掛けた。

 ホテルの看板や防火水槽工事の仮囲いの色など、これまでに届け出があった五件を指導。いずれも問題がないか、改善されつつある。しかし、強制力がないうえ、新築や増築以外の建物については適用されないため、以前から「目立ちすぎる」と批判があった立体駐車場、ホテルの屋外広告は以前のまま残っている。

 「ドームに限らず、日本の景観の管理はひどい」と指摘する杉本俊多広島大工学部助教授(建築史)は「民主主義が熟成していない現在、規制を強めると反発があるだろう。街づくりのルールを市民が論議する機会を増やし、民主主義を育てなくては」と、行政の積極的な情報開示の必要性を挙げる。市民を含めた幅広い論議と息の長い取り組みが求められる。

  ▽歩み <原爆ドーム>
1915年 8月 広島県物産陳列館が開館。設計はチェコの建築家ヤン・レツル氏
1921年 1月 広島県立商品陳列所と改称
1933年11月 広島県産業奨励館と改称
1945年 8月 原爆投下。大破全焼し、全員(人数不明)即死
1951年 8月 浜井信三広島市長、森戸辰男広島大学長らが「原爆ドーム保存は不必要」と、座談会で語る
1958年11月 広島県がドームを広島市に譲与
1960年 5月 「広島折鶴の会」がドーム保存の署名と募金運動を始める
1966年 7月 広島市議会が「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議
1966年11月 広島市の原爆ドーム保存募金運動がスタート
1967年 4月 第1次保存工事着手。接着剤18トン使用し8月に完成
1983年 3月 ドーム周辺広場整備完了
1989年10月 第2次保存工事始まる
1990年 4月 第2次保存工事完成
1992年 9月 広島市議会が原爆ドームの世界遺産化の意見書を可決
1993年 1月 平岡敬広島市長が、文化庁と外務省へ世界遺産リスト推薦を要望
1995年 6月 国が文化財保護法の史跡に原爆ドームを指定
1995年 9月 国がユネスコへ原爆ドームの世界遺産化を推薦
1996年10月 「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が白神山地、屋久島に採水団を派遣
1996年12月6日 世界遺産委員会で登録が決定

(1996年12月7日朝刊掲載)

世界遺産化への歩み

「ユネスコ世界遺産 原爆ドーム―21世紀への証人」
(1997年 中国新聞社刊)より

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で、一九七二年に採択された世界遺産条約を日本が批准したのは、九二(平成四)年六月。政府は批准までに二十年かかったが、ヒロシマは素早く反応した。政府は第一次の推薦リストに姫路城や屋久島など四件、今後推薦する暫定リストに厳島神社など人件を選定したが、その中に原爆ドームが入っていなかったからである。

 九二年九月、広島市議会が「核時代に生きる人類の誓いのシンボル。日本の恒久平和実現への決意を示すために」として、世界遺産の推薦リストに原爆ドームを加えるよう求める意見書を採択。九三(平成五)年一月には平岡敬広島市長が剛に推薦を要望した。

 だが、文化庁は当初、推薦を渋った。世界遺産になるためには、まず国内の法的な保護が前提だ。原爆ドームは、広島市の「公園」にすぎず、保護すべき法的根拠は何もなかった。そして、文化庁は「原爆ドームは文化財としては年代が新しすぎる」と主張していた。 当時、最も新しい文化財は、明治二十三年に小泉八雲が住んだ松江市の家であった。

 つまり、文化庁は、原爆ドームに世界遺産としての価値があるかどうかはさておき、原爆ドームが文化財の対象外であるため、結果として世界遺産への推薦が出来ないという論理であった。いわば「門前払い」である。

「すすめる会」発足 原動力に

 この厚い壁を破るため、九三(平成五)年六月、連合広島の呼び掛けで「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が発足した。

 「すすめる会」の構成団体は、広島県医師会、広島県弁護士会、広島県歯科医師会、広島市医師会、広島県原水禁、核禁広島県民会議、広島市歯科医師会、広島県地域女性団体連絡協議会、連合広島、広島市地域女性団体連絡協議会、広島県ユネスコ協会連絡協議会、広島県被団協、広島市ユネスコ協会、広島にある十四ライオンズクラブの十四団体。「選挙の際の支持母体となる医師会を含めて幅広い団体構成にしたことが、後で国会や政府を動かす原動力になった」と、運動を進めた関係者は振り返る。

 「結成総会では、ドームの世界遺産化を文化庁に働きかけている広島市の平岡市長のあいさつに続き、古田隆規広島弁護士会長、森川武志連合広島会長、森滝市郎広島県被団協会長ら六人を会の代表委員に選んだ。このうちの一人、藤田真治広島修道大学長が『二十世紀の不幸な歴史を伝える原爆ドームを世界の遺産にするのは人類共通の願い。百万人の署名を達成したい』と決意を述べた」(九三年六月八日付中国新聞)

 百万人を目標にした「すすめる会」の署名活動は、発足後間もない六月十九日、広島、呉市内でスタート。約三カ月後の九月二十八日、早くも目標を突破し、十月に署名簿を添えた請願書を衆参両院議長に提出した。最終的に署名は百六十五万人を超える。

県内市町村議会が相次ぎ意見書

 これに呼応するように、広島市議会、広島県議会に続き、九月に福山市、呉市、三次市、東広島市など広島県内の市町村議会も次々に世界遺産化を求めて意見書を採択した。

 翌九四(平成六)年一月、参院本会議は文教委員会の審議結果通り請願を採択したが、衆院文教委員会では「学術的評価が定まっていない」など否定的な意見が出され、事実上の不採択に当たる「保留」となった。文化庁の消極的見解も相変わらずで、運動は暗礁に乗り上げたかに見えた。

 事態を大きく変えたのは、九四(平成六)年六月、閣僚懇談会での羽田孜首相の指示だった。

 「石田総務庁長官が、原爆ドームの世界遺産化について『政府はドームの保存をどう考えているのか。文化庁の検討は進んでいないようだ』と指摘。『遺産条約は必ずしも遺跡の古さだけを判断基準にしていない。比較的新しいものでも、内容によって前向きに検討すべきではないか』と述べ、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が世界遺産に登録されている点を念頭に、文化庁へ前向きな対応を求めた。それを受けて、羽田首相は『終戦五十周年を機に、ドーム保存の在り方を含めてこの間題を検討してほしい』と指示。熊谷官房長官は『どのようなことを考えたらいいのか、検討している』と述べた」(九四年六月七日付中国新聞)

 羽田首相の指示は、文化庁に「逆転の発想」を迫った。「原爆ドームは文化財という要件を満たしていないから、世界遺産に推薦できない」という当時の文化庁の論理は、条件や要素から導き出される答えであった。

 これに対し、羽田首相の指示は、いわば「原爆ドームを世界遺産にする」という答えが先にあって、そのために必要な条件や要素をそろえよ、というのである。原爆ドームが文化財でないからダメというのであれば、文化財に指定されるように指定範囲を広げればいいではないか-。役所にとっては強引ともいえる手法だった。

 「首相の一言」の重みは絶大だった。文化庁も文化財の指定基準見直しを検討し始めた。

 六月二十九日には、再び提出されていた請願を衆院文教委員会が全会一致で採択、本会議でも採択された。

 七月には、広島市の呼び掛けで広島と東京で相次ぎ「原爆ドーム世界遺産化推進委員会」が発足。行政や文化人、学識経験者などが加わった。

 被爆五十年の九五(平成七)年。世界遺産化への動きが一気に進んだ。まず一月、文化庁の諮問を受けた「近代の文化遺産の保存・活用に関する調査研究協力者会議」が史跡の指定対象を「第二次世界大戦終結ごろまで」へと枠を広げるよう求めた。これを受け、五月に原爆ドームの史跡指定、九月には世界遺産への推薦が決まった。

 文化庁は推薦理由を「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えている。時代を超えて核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑である」とした。推薦遺産の範囲は、原爆ドームの敷地約〇・三九㌶。世界遺産条約で設置が義務づけられる緩衝地帯(バファーゾーン)は、平和記念公園全体を含む四二・七㌶となった。

世界遺産―人類共有の「平和のシンボル」へ

 人類最初の原爆被災を象徴するモニュメント「原爆ドーム」。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の文化遺産リストへの登録決定は、一九九六(平成七)年十二月五日午前(日本時間六日未明)だった。メキシコのメリダ市で開かれた「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)の第二十回世界遺産委員会は、日本が申請した「厳島神社」(広島県佐伯郡宮島町)と同時登録を決めた。

米国は不支持、中国は賛否留保

 国内の戦争遺産の登録は初めて。人間の過ちの歴史を伝える「負の遺産」で、第二次世界大戦関係ではポーランドの「アウシュビッツ強制連行収容所」に次いで二番目。被爆地の記念碑は、人類共通の「平和のシンボル」として認められた。

 だが、文化庁によると、「原爆ドーム」の登録をめぐっては米国、中国が不支持や賛否を留保し、歴史観の違いも浮き彫りになった。

 審議の過程で、中国は第二次大戦での日本の加害責任に触れ、「われわれは今回の決定から外れる」と発言。「戦争関連施設は遺産リストに含めるべきでない」と不支持を表明していた米国は審議後、「原爆ドームの世界遺産登録に関する本日の決定については参加しない」と声明を発表した。両国の姿勢は、九五年の米スミソニアン航空宇宙博物館で計画中止に追い込まれた原爆展を思い起こさせる。世界遺産委員会の二十一カ国のうち、この二カ国以外は発言がなく、「戦争の遺産ではなく、平和のモニュメントに」と呼び掛けた日本の主張が受け入れられた。

 被爆の惨禍を刻むモニュメントの世界遺産化に、ヒロシマは「長年の願いが通じた」と喜び、同時に「世界史の証人」となった責任の重さをかみしめた。

 広島市の平岡敬市長は記者会見で、次のように遺産化を意義付けた。

 「原爆ドームが、人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える『歴史の証人』であると、国際的に認められたことは意義深い。人間の過ち、歴史の光と影を見ようとするのは人類の進歩だと思う。(米国や中国が登録に賛成しなかったことは)核兵器の使用を認める論理は許してはならないが、日本は戦争の加害も認識せよという警告は受け止める。人類共有の遺産と認めた国際世論をばねに、核兵器廃絶と人類の平和を求める『誓いのシン ボル』として、世界遺産登録されたことを広く国内外に紹介するとともに、中長期的な観点からふさわしい景観形成を図り、保存管理に適切な措置をとっていきたい」

年別アーカイブ