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3.11とヒロシマ

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第1部 5年後のフクシマ <3> 折り合い 模索する日々

 楽しそうに庭を駆け回るわが子を、福島県二本松市の主婦(41)が優しく見守っていた。「少しずつ自分の基準を広げて、ようやくたどり着いたんです」。感慨深そうに、この5年間を振り返った。

勉強会が転機

 小池さん宅は市の南東部にあり、東京電力福島第1原発から直線距離で約40キロ。ただ、千メートル級の峰が連なる阿武隈山地を隔て、原発の存在を意識したことはなかった。原発事故は、第2子の長男が生まれて約2週間後に起きた。「雨に打たれたら、髪の毛が抜けるだろうか」。放射線の知識は乏しかった。産後の体調が思わしくない中、不安と恐怖ばかりが募っていた。

 まず1歳上の長女の外遊びを禁止した。週末は、夫(56)の協力で県外に連れて行ったが、家の中にいることが多いからか、芝生を「ちくちくする」と嫌がり、砂利道をうまく歩けなかった。気にはなったが、もし余計な被曝(ひばく)をしてしまったらと考えると、「今は我慢して」と思うしかなかった。

 がんじがらめだった気持ちが解きほぐれたのは、市の放射線勉強会に参加するようになってからだ。市の放射線アドバイザーを務める独協医科大の木村真三准教授に教えを請い、測定器も借りて、食材から衣服まで徹底的に調べ始めた。

 同居する義父母が食べていた畑の野菜を測ると、1キログラム当たり5ベクレル。食品の基準値(1キログラム当たり100ベクレル)の20分の1だった。小池さんや子どもは県外産の野菜を通信販売で買っていたが、しなびていた。「心の中でいろんな足し算、引き算をして、新鮮なものを食べた方がいいと自分で判断できた。妥協点が見つかっていった」と振り返る。

外遊びを再開

 庭での外遊びも、自宅の除染が終わった2013年夏から始めた。空間放射線量は、除染で毎時0・63マイクロシーベルトから同0・15マイクロシーベルトまで下がった。最初は30分間だけ。家に戻る前は玄関で服を着替えさせていたが、徐々に制限をなくした。今は手洗いをしっかりすれば、自由に遊ばせている。

 それでも、初めて子どもを連れて行く場所には、今も必ず測定器を携える。放射性物質がたまりやすい側溝に近づいた友達に、長女が「そこは放射能だから駄目だよ」と注意し、その場の雰囲気が微妙になったこともある。

 「私は幼稚園では有名人ですから。娘は春に小学生になり、集団行動が増える。また基準を考えます」。放射線への考え方は、人によって違うだろう。でも、ここで生きていくからには、自分なりに向き合い続けるしかない。小池さんは、たくましく笑っていた。(藤村潤平)

食品の基準値
 福島の原発事故を受け、厚生労働省は国内産食品の出荷の可否を判断する放射性物質の基準値を初めて設けた。野菜は、セシウムは事故直後の暫定基準で1キログラム当たり500ベクレルだったが、2012年からの新基準で同100ベクレルに厳格化された。仮に基準上限の食品を1年間食べ続けた場合、年間被曝線量は最大約0・7ミリシーベルトと推計されている。

(2016年3月5日朝刊掲載)

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