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3.11とヒロシマ

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第1部 5年後のフクシマ <1> 止まった町 戻らぬ生活

 東京電力福島第1原発から南西約3・7キロにある福島県大熊町の熊町小。倒壊した門柱をすり抜けると、松の若木やススキが茂るグラウンドが広がっていた。「5年前までは、きれいな芝生だったんですよ」。案内してくれた鎌田清衛(きよえ)さん(73)が、マスク越しにつぶやいた。近くで果樹園を営んでいた。

「3月11日」

 教室をのぞくと、黒板に「3月11日」の文字、時計は震災時の「2時48分」を指したまま。急いで逃げたのだろう。机や床には、多くのランドセルが放置されていた。荒れ果てた校庭と時が止まった校舎。どちらもが、手つかずの「帰還困難区域」を象徴していた。

 線量計に目を落とすと、毎時6マイクロシーベルト。地面に近づけた瞬間に同15マイクロシーベルトにはね上がった。事故で放出された放射性セシウムなどが、地表にとどまっているのが分かる。仮にその場に1年間いれば、被曝(ひばく)線量は131ミリシーベルトに達する。国連科学委員会が発がんリスクが高まると指摘する100ミリシーベルトを上回る。

 「線量は当時より、ずいぶん下がった。でも、慣れというのは恐ろしい」と鎌田さん。事故後に初めて町に戻った2011年夏、自宅近くは毎時100マイクロシーベルトを超えていた。国が用意したバスで巡回すると、誰もが横付けした家に飛び込み、息を切らせて物を持ち出すほど緊張感があった。

 ところが今、国が着用を勧める防護服をまとわず立ち入る町民もいるという。「測らなければ存在が分からない。だからこそ、なおさら怖いし、一方で感覚をまひさせる」。放射線と相対する町民の心情が、鎌田さんの言葉ににじんだ。

96%帰還困難

 大熊町は、町民が住んでいた96%のエリアが帰還困難区域に指定され、全約1万1千人が避難を続けている。鎌田さんも県内を5度転居し、現在は須賀川市で妻(66)と母(97)の3人で暮らす。車で約2時間かけて古里に通うのは、埋もれていく町の石碑などをチョークを使って紙に写し取る「フロッタージュ」に取り組んでいるからだ。

 ただ、その活動もいつまで続けられるかは分からない。鎌田さんの家や熊町小は、県内の除染廃棄物を30年間保管する中間貯蔵施設の建設予定地。廃棄物の試験輸送は、既に始まって1年たつ。地権者との用地交渉は進んでいないが、国は10月にも一部施設の建設に着工する方針だ。

 大熊町は、18年を目標に帰還困難区域外に住宅などを整備する計画でいる。「元の暮らしは二度と取り戻せない。国の支援で町の名前は残っても、それは廃炉作業に関わる人たちが暮らす別の町」。鎌田さんは、愛する古里の未来を冷静に見据えていた。(藤村潤平)

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 放射線を浴びた量が少しなら人体にどんな影響があるか、科学はまだ、その答えを明確に出していない。福島の原発事故から間もなく5年。目に見えない放射線と今なお向き合わざるを得ないフクシマを歩いた。

帰還困難区域
 国の避難指示が続いている3区域のうち、年間の被曝線量が50ミリシーベルトを超える区域。立ち入りは原則禁止だが、町民は事前に申請すれば年30回、1回当たり5時間まで滞在が許可される。大熊町に加え、双葉町や浪江町など計7町村にまたがる。

(2016年3月3日朝刊掲載)

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