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社説・コラム

『論』 「無言の証人」被爆建物 私たちの想像力が生命線

■論説委員 藤村潤平

 JR広島駅近くの猿猴(えんこう)川沿いを歩くと、ほろ苦い気持ちになる。5年前まで広島市の被爆建物の旧住友銀行東松原支店があった。爆心地から1・9キロ。爆風でゆがんだ鉄扉が原爆の威力を伝えていた。何とか残せないか―。駅前再開発で解体に揺れた頃、そんな思いをにじませた記事を何度か書いた。

 鉄扉は今、跡地に立った複合施設ビッグフロントひろしまの壁面のガラスケースに収められ、象徴的に保存されている。日英両語の説明文を刻んだ銘板もあるが、人通りは少なく、立ち止まる人はほとんどいない。保存に尽力した再開発組合(昨年解散)の前岡真仁元理事長(70)は「見ている人はごくわずか」と無念そうに話す。

 なぜ残すのか、どう活用するか。これらの問いに答えてこそ、被爆建物は命を永らえられる。

 とりわけ長年放置されている広島大本部跡地の旧理学部1号館や旧陸軍被服支廠(ししょう)に当てはまるだろう。所有者の市や広島県は、耐震化費用を数十億円と試算する。それに見合う答えを探り当てなければ、解体という選択肢も現実味を帯びる。

 いま渦中の被爆建物がある。爆心地から170メートル、平和記念公園のレストハウス。市は2019年度末までに改修し、被爆前は繁華街だった公園内の中島地区を伝える展示を新たに設ける。

 折しも、アニメ映画「この世界の片隅に」のヒットで、当時の市井の人々の営みに関心が高まっている。レストハウスの活用として意義深いと思う。市が23年前、いったんは解体方針を示したことを考えれば、なおさらである。

 ただ、今年4月に公表された改修計画で初めて示された外観の変更には不安を覚える。戦前の大正屋呉服店にあった屋根の装飾やバルコニーを復活させ、外壁は現在のクリーム色から薄いだいだい色に塗り替えるという。

 かつて取材で追った猿猴橋の復元が頭をよぎる。戦時中の金属供出で石造りの簡素な橋になったが、市の被爆70年事業で大正末期のモダンな姿によみがえった。

 橋脚は残したものの、年月を重ねた親柱や欄干はすげ替えられ、真新しい橋のようになってしまった。戦争に翻弄(ほんろう)されながら、爆風に耐え、傷ついた被爆者の命をつなぐ道にもなった猿猴橋の歴史は想起しにくくなった。

 むろん戦前の広島の歴史も大事なものだ。復元自体を否定するつもりはない。ただ、復元の際にそういった議論は乏しかった。筆者自身も想像力が足りなかった。

 レストハウスは、爆心直下の地下室で男性が唯一生存し、手記を残している。戦後は市の復興事務所になった。公園施設として30年以上使われてきた重みもある。希少であればこそ、活用策は有識者を交えてオープンに議論し、市民にも意見を聞くべきではないか。

 被爆建物を考える上で興味深い催しが、広島大霞キャンパスの医学資料館で開かれている。爆心地から3・8キロにあり、今年2月に解体された旧中国配電南部変電所をテーマにしている。

 解体された壁や鉄骨が並び、被爆建物の意義を訴える。展示はそれだけにとどまらない。「批判も覚悟で解体を決意した」「ただの産業廃棄物じゃない」。所有者の葛藤や、一部を譲り受けた研究者の思いをインタビューで紡ぐ。

 企画した広島大院生の湯浅梨奈さん(24)は「最初は頑張れば残せるんじゃないかと思ったけど、解体までには相当な努力もあったと知った」と語る。

 被爆建物の議論は、存廃の二元論に陥りがちだ。だが、残らなければ終わりではないと気付かされた。世界遺産の原爆ドームであれ、形あるものはいつか朽ち果てる。そのまま存在し続けるのが理想だとしても、そうでなくなっても何ができるのかを考え続けたい。

 被爆建物は、いつしか「無言の証人」とも呼ばれるようになった。被爆者が少なくなる中で、あの日の惨禍を思い起こす手掛かりを与えてくれるからだろう。私たちが求め続ける限り、どんな形に変わってもなお「証人」でいてくれる。再開発ビルに埋もれている鉄扉にも、それは言える。

(2018年7月26日朝刊掲載)

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