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連載・特集

マンハッタン計画 75年後の核超大国 <1> 首都の秘密都市展

 広島と長崎に投下された原爆は米国の極秘国家プロジェクト「マンハッタン計画」で開発された。計画が本格的に動きだして、ことしで75年。核兵器の使用と結末は、どんな歴史観や文脈で伝えられていくのか。原爆の日を前に、トランプ政権下の核超大国を歩いて探った。(金崎由美)

原爆開発史 被害も言及

使用の評価 被爆地とずれ

 米国の首都ワシントン。連邦捜査局(FBI)などの政府機関に隣接する国立建築博物館で「シークレット・シティーズ(秘密都市)」という少々謎めいたタイトルの企画展が開かれている。

 マンハッタン計画の主要拠点となったロスアラモス、オークリッジ、ハンフォードのことを指す。研究所や製造施設、計12万5千人のための生活インフラ整備は1943年に本格着手。突貫工事の末、2年余りで原爆使用に至った。

 「科学や軍事、政治だけでなく、建築学や都市計画の面からもマンハッタン計画の意味を提示した」。マーティン・モラー上級学芸員(57)が展示パネルを丁寧に解説してくれた。

 ドイツ発祥の近代デザイン「バウハウス」の影響が濃い移住者向けの住居は、いかにも快適そう。厳格な秘密保持が課された生活ながら、娯楽施設が充実していた。街路を曲線状に配した家並みは、米国の宅地造成の原型となった。

過去に大論争

 計280枚の写真やパネルのうち、ごく一部だが、原爆被害が取り上げられているのが印象的だった。熱線で着物の柄が皮膚に焼き付いた女性の背中の写真を縦3メートル横2・5メートルに拡大して置く。「原爆開発計画にまつわる展示である以上、その結果である人間の被害にも触れるべきだと思った」とモラーさんは言う。

 「20年余り前の大論争の再現になるか、という意識はあった。しかし、今のところ特にクレームはない」。93年には、この博物館から1キロほど先のスミソニアン航空宇宙博物館で広島原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機体展示計画が持ち上がった。

 当時、広島と長崎の原爆資料館から借りた被爆資料や写真も同時に展示しようとしたが、「原爆が第2次世界大戦を終わらせた」とする退役軍人団体などが猛反発。館長は解任され、95年に機体の一部だけが展示された。原爆被害を米国の中枢で伝える難しさ。日米双方の関係者に、苦い経験として刻まれた。機体は現在、航空宇宙博物館の分館で展示され、両翼の長さなどの数字の説明だけだ。

迷わず「必要」

 「それでも、年月が経過し戦争世代が少なくなるにつれて米国の世論は変化している」。ワシントンでマンハッタン計画の継承に取り組む「核遺産財団」のシンシア・ケリー代表(72)は語る。ロスアラモスをはじめ計画に関わった3地区に残る原爆組み立て施設などの遺構が3年前、国立歴史公園に指定された。その実現を求めた運動で中心的な役割を果たした一人だ。

 原爆開発の歴史にもう一度、自国の視点で光を当てる動きが米国で活発になっている。被爆地の思いと、本当に重なり合うのか。原爆の実態を踏まえた教訓が未来へ生かされるのか。

 「秘密都市」展は締めくくりで、マンハッタン計画国立歴史公園ができたことを伝えていた。そこには核時代の幕を開いた計画の責任者、レスリー・グローブス将軍の証言も引用している。「米国の原爆開発は必要だったか、との問いには迷わずイエスと答える」。いまだ壁は高い。

マンハッタン計画
 ナチスドイツの研究先行を恐れたルーズベルト大統領が命令、陸軍に組織された「マンハッタン工兵管区」の指揮で始まった原爆開発計画。1943年春、ニューメキシコ州ロスアラモスに研究所が設置されて核爆弾を設計、製造。テネシー州オークリッジでウラン濃縮、ワシントン州ハンフォードでプルトニウム生産が行われた。45年7月16日にニューメキシコ州のトリニティ・サイトで初の核実験。8月6日にウラン型原爆を広島に、9日にプルトニウム型原爆を長崎に投下した。ロスアラモスとオークリッジは今も研究開発拠点。

(2018年7月30日朝刊掲載)

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