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緑地帯 語り継ぐ一人として 村田くみ <2>

 なぜ、自分のバーで「被爆体験を聞く会」を開こうと思ったのか。バー・スワロウテイル店主の冨恵洋次郎さんに、私は真っ先に聞いてみた。

 大学中退後、働いた千葉県内のバーでお客さんから「出身はどこ?」と質問され、「広島です」と答えた。すると「原爆がうつる」と返された。その場は笑って取り繕ったが、悲しかった。平和学習で原爆について学んだが、客に反論するほどの知識はなかった。「学ぶのなら被爆者の話を聞くのが一番」「被爆者が歩んだ人生を知りたい」と思ったという。

 彼自身、祖母が被爆者で被爆3世。でも、家族の間で戦争についての話をすることもなく、「もっとばあちゃんから話を聞いておけばよかった」と後悔していた。

 なぜ広島の人たちは、原爆について家族の間であまり話をしないのだろう。それが、私の中で湧き上がった疑問の一つだった。

 冨恵さんが、よく通う食堂でおかみさんに話しかけた時のエピソードを教えてくれた。その食堂は、南方の戦地に赴いたおかみさんの父が、無事に広島に帰ってきたら開店したいと願った店だった。店の名は、戦場で父が眺めた「南十字星」から取った。原爆が落とされた時、おかみさんは疎開していたが姉たちは被爆した。「うちは運が良かったんよ」と打ち明けた。それ以上のことは聞くことができなかったという。

 「広島の人は運良く自分は生き残っても、身近な誰かが犠牲になっている。運命のいたずらがいつまでも苦しめる」。冨恵さんの言葉にはっとさせられた。(週刊誌記者=東京都)

(2018年7月28日朝刊掲載)

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