×

社説・コラム

『想』 豊永恵三郎(とよなが・けいさぶろう) ヒロシマを語る

 1983年11月、私は大阪の西成高の修学旅行生に被爆体験を話すことになった。証言する被爆者は15人いたが、私を含むほとんどが未組織で、皆初めての体験だった。

 当時、同校には金のブレスレットやイヤリングをするなど、荒れた格好の生徒が少なくなかった。夜、私たちは、15人ほどにグループ分けした生徒に話をした。最初はざわついて、聞く耳を持たなかった生徒たちも、話が進むにつれ、だんだん静かになっていった。終了後には、ギンギラギンの女子生徒が、涙顔で「初めて心に染みる話を聞いた。今後、多くの子どもに話してください」と言うのだった。

 その後、彼らが中心となり、幾多の困難を乗り越えた末、翌84年の夏休みに下級生を連れて広島を訪れることになった、との連絡が入った。私たち被爆者も、84年4月に被爆体験を証言する「ヒロシマを語る会」を13人で結成。少人数のグループに分けて話す「西成方式」を基本に、修学旅行生に語り始めた。

 その年の8月、西成高の生徒、教師の計58人がバス2台で広島を訪れた。そこでは被爆者の話を聞くだけでなく、広島の高校生との交流も持たれた。

 残念なことに、西成高の広島訪問はその後なくなったが、同校の広島訪問は、NHKの「絆―高校生とヒロシマ」というドキュメンタリーにまとめられ、84年秋、テレビ放映された。この作品は「『地方の時代』映像祭」でグランプリを受賞。プロデューサーを務めた川良浩和さんは、同じタイトルの本を径書房から出版した。

 語る会の方は、その後、証言者が30人前後に増えた。だが、被爆者の高齢化や死亡で2001年、解散となった。解散までの17年間にメンバーが証言した相手は約3万4千人に上った。

 被爆体験を聞きたいという学校は現在も多い。同じく私が携わってきた、在韓被爆者を支援する市民グループにも被爆者のメンバーがいる。今はその皆さんと、年間約50回の証言活動に取り組んでいる。(韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部世話人)

(2018年8月2日セレクト掲載)

年別アーカイブ