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連載・特集

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <下> 古里への史料提供

言い尽くせぬ思い胸に

 日米安保条約の改定で騒然とし、また所得倍増計画が打ち出された1960年、広島市戦災児育成所は「市童心園」に改称する。子どもたちが仏参を日課とする、市郊外五日市町(現佐伯区皆賀)の所内にあった「童心寺」に由来した。

 育成所の「原爆孤児」は数少なくなっていた。年長組の多くは中学を出ると職に就き、高校から自力で大学へ進む者も現れていた。

 村上信明さん(76)=東京都府中市=は、61年春に童心園を旅立つ。早稲田大文学部に合格した。「東京に出て働けば何とかなる、先輩にも刺激された」。入学金は、ためていたフランコ・モンタナリ氏からの送金をすべて充てたという。

精神養子縁組

 「イタリア人と初の精神養子縁組」(中国新聞54年10月16日付)。五日市小6年の時、広島市厚生局長に呼び出され、駐日大使館参事官と会う。毎月千円単位の送金が始まり、五日市中から隣町にある廿日市高へ進んだ後も続いた。

 精神養子は、山下義信・禎子夫妻が営む育成所を49年に訪れた米ニューヨークで発行の文芸誌主筆ノーマン・カズンズ氏が提唱。原爆投下を巡る日米の溝も埋めようとした養育支援は、53年には計409人を数えたが、言葉の壁もあり長くは続かなかった。

 だが、モンタナリ氏は、西アフリカ・リベリアに転任しても「大学へ進学するなら知らせて」と送金の継続を童心園に伝えてきた(60年8月23日付手紙=市公文書館蔵)。村上さんが進学後、矢吹憲道園長へ宛てた手紙も残る。「非常な負担と思います。増額はお断りしてください」

 アルバイトから体を病むと長期帰省した。出身者が盆や正月休み、また失職時に食べて寝られる、「憩いの家」という一室が市営となり設けられていた。

 東京オリンピックの開催が近づく64年初夏。アルバイト先のTBSに、高評を博していた「アサヒグラフ」の取材班が写真を携え訪ねてきた。その1枚は50年に育成所の小高い丘で自身も笑みを浮かべていた。64年8月7日号の特集「もう“原爆孤児”ではない」には、村上青年の姿や言葉は収められてはいない。

 「ニュース・カメラマンの助手だった学生がニュースのネタでは…」と断った訳を語ったが当時、孤児になった自身の被爆を周囲に伏せていたわけではない。大学の自治会活動では原水爆禁止を訴え、生い立ちも口にした。友人らを広島へ誘い童心園にも泊めた。

 育成所初期の「要覧」「児童名簿」が現存するのは、帰省した園で66年夏に「廃棄処分」の箱にあるのを見つけ、とっさに「残さなくては」と思ったからだ。

 村上さんは、出版社勤めを経てフリーとなり「出版流通図鑑」(88年刊)などを著す。この間、結婚して1児の父となり、著述や講演を続け大学でも教える。現住所に自宅を84年に建てたのを機に「広島市三川町」から本籍を移した。

25人が健在か

 著述活動は狭心症で倒れた6年前から退く。原爆資料館へ貴重な史料を提供したが、東京にいても続ける仲間との交流をも基に著したことはないという。なぜ? 沈考して答えた。

 「書き切れないからでしょう。『原爆孤児』だったからと単純に一元化できるものではない。それぞれに内面は違う。言い尽くせないものが私らにはある」

 親きょうだいらの五十回忌を呼び掛けた元「童心会」代表によると、今も健在とみられるのは25人になったという。(西本雅実)

(2018年8月4日朝刊掲載)

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <上> 広島戦災児育成所

「原爆孤児」と呼ばれて その記録と証言 <中> 民間・広島市営

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