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尊い命 悼む 坂の水尻さん あの日の手記 遺品に 救護被爆の母 豪雨で犠牲

書き残していたとは全然知らんかった

 原爆の悲劇を、二度と繰り返してはならない。6日、被爆73年の「原爆の日」を迎えた広島は鎮魂の祈りに包まれ、核兵器のない世界への誓いを新たにした。広島県内に甚大な被害をもたらした西日本豪雨から1カ月。被災地では、原爆と豪雨の犠牲者を共に悼む被爆者や遺族、市民の姿があった。痛みを分かち合い、また立ち上がるために。朝鮮半島の非核化への期待が高まる中、在日韓国・朝鮮人の被爆者や若い世代が、その実現を願った。

 「ああ、おかんの字じゃ。書き残していたとは全然知らんかった」。水尻忠道さん(56)は6日朝、広島県坂町小屋浦の自宅にまだ残る土砂をかき出す手を止め、母キク子さんの手書きの「被爆体験記」に初めて触れた。母は西日本豪雨で土砂と水にのまれ、85歳で亡くなった。これまで詳しく聞いたことがなかった母の被爆の記憶に向き合った。

 73年前、キク子さんは小屋浦国民学校(現小屋浦小)高等科1年の12歳。原爆投下後、多くの負傷者が収容された同校で8月10~15日、同級生と救護活動を手伝った。「づるづるになっている皮をキレイに拭き」「大勢の人が亡くなられコモに包んであるのを外の砂場迄(まで)皆んなで抱えて運びました」

 水尻さんは、1枚の紙に書かれた手記を読み進め、顔をしかめた。けが人から「水がほしい」と請われたくだりで目を止めた。「兵隊さんに水はダメだと言われても可哀想(かわいそう)で水を少しくんで来てあげました」―。「優しかったからなあ」。1カ月前、ふいに消えた母の笑顔を思い起こした。

 キク子さんは水尻さんが7歳の時、夫寛さんに先立たれた。運送会社で働きながら2人の子どもを育て上げた。寛さんも広島市内で被爆し、顔にやけどを負っていた。キク子さんと同居していた水尻さんは、被爆者健診に送迎するなど救護被爆した母の健康を気遣ってきた。

 そんな母子の自宅を、土砂は容赦なく襲った。7月6日夜。「自宅に水が」。所用で外出していた水尻さんの携帯電話に、自宅にいた母から助けを求める電話があった。道路が寸断されたため戻れず、数時間後、連絡が取れなくなった。母と、一緒に暮らしていた叔母の2人が犠牲になった。

 体験記は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)から複写の許可を得て中国新聞が水尻さんに届けた。1995年、旧厚生省による体験記募集に応じたものだった。当時、募集に応えなかった被爆者は少なくない。なぜ、つらい記憶を記したのか―。読み終えた水尻さんは「正直者だから」とこぼした。淡々とつづられた手記の行間に平和への願いも感じ取る。

 キク子さんに破れたポケットを直してもらったジーンズ、食卓に並べたタンブラー…。水尻さんは母との思い出の品を土砂の中から捜し出す。手記は、母の記憶を受け継ぐ「遺品」として大切に保管する。(水川恭輔)

(2018年8月7日朝刊掲載)

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