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社説・コラム

社説 被爆地の訴え 対話こそが平和の原点

 何としても伝えたい思いがあるなら、別の物言いもあったのではないか。被爆から73年のことしも、広島市の平和記念式典で数々のメッセージが発せられた。国内外でどう受け止められたのか、疑問が解けない。

 松井一実広島市長の平和宣言は、十を超す国が批准した核兵器禁止条約の意義を、なぜ真正面から訴えなかったのか。目の前にいる安倍晋三首相に、なぜ条約署名を迫らないのだろう。

 ヒロシマやナガサキの思いが実を結んだ、悲願の条約ではないか。世界の為政者や日本政府に「役割を果たしていただきたい」と、おずおず物申す調子は物足りない。身の危険を感じる猛暑の中、無理を押し、参列した人々の落胆がしのばれる。

 引用する被爆者の文章を募り、有識者の議論を参考に市長が仕上げる方式に切り替えて、8年目になる。被爆地の市長による渾身(こんしん)の訴えといった迫力には欠ける。仕切り直しを考える頃合いではないか。

 式典参加が7回目を数える安倍首相のあいさつは、味も素っ気もなかったと言わざるを得ない。「唯一の戦争被爆国」として、核兵器の保有国と非保有国との対話の橋渡し役を担うと声高に訴えるものの、残念ながら実態が伴っていない。

 国際社会を主導すると繰り返しながら、核兵器禁止条約に背を向ける。言行不一致は、どちらからも敬意を払われているように見えない。鳥と獣の双方にいい顔をして、どちらにも相手にされなくなるイソップ童話のコウモリも同然ではないか。

 湯崎英彦広島県知事のあいさつには、工夫を凝らした跡が見えた。親が子どもに聞かせる調子で、浅はかな核抑止論を「わが家と隣の家」との間柄になぞらえてみせた。

 お隣の一家とは仲が悪いが、家ごと吹き飛ばす爆弾を隣に仕掛けてある。ただ、うちにも同じ爆弾が仕掛けられている。共倒れは嫌だから、大げんかにはならないし、たぶん爆弾は誤作動しない。おまえは安心していれば、いいんだよ―。

 そんな理屈に大人の社会が丸め込まれ、恥ずかしくないのかとの問い掛けだろう。核超大国に追従を続ける日本政府の姿勢は、ことしの平和宣言が求めた「理性」からは程遠い。

 ヒロシマの伝承者になると言い切った、小学生2人の平和への誓いは頼もしい。真っすぐな思いがかなうよう願いたいが、平和学習のゴールをそこに据えてしまう必要はあるまい。

 継承に重きを置くあまり、児童や生徒に一方通行の学習を強いてきた面もある。広島市教委は数年前から、学齢に合わせ、興味をかき立てる教材「ひろしま平和ノート」の定着に努めている。長崎市教委も本年度、一歩踏み出した。子ども同士の、あるいは被爆者との対話を重んじる試みである。

 核兵器のない世界づくりのために、身の回りで何ができるのか。一人一人の子どもが、わがこととして考え、行動できるような人間にと願い、支える教育者の思いは変わるまい。

 平和とはつまり、対話の積み重ねだろう。ひとり学校現場に任せず、家庭で、職場で、地域社会で、あるいは趣味やスポーツといった交流を通じ、対話の場を切り開く。きっと、できるはずである。

(2018年8月7日朝刊掲載)

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