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社説・コラム

『論』 3・11後の司法 科学論争含め熟議の場に

■論説副主幹 宮崎智三

 「羅生門」「七人の侍」「砂の器」などの傑作映画の脚本を書いた橋本忍さんが先月亡くなった。八海(やかい)事件という山口県東部で起きた殺人事件をモチーフにした「真昼の暗黒」も、代表作の一つだろう。ラストシーンが忘れ難い。

 単独犯だったにもかかわらず、犯人は共犯者として仲間の名を警察に告げる。巻き込まれた主人公の若者は、強要された自白以外は証拠がないまま一審に続き控訴審でも無実の訴えが退けられる。それでも拘置所に面会に来た母親に叫ぶ。「まだ最高裁がある」と。

 事件は映画製作時にはまだ係争中。そのため最高裁から直接、製作中止を要請される。完成後は大手配給会社が手を引く。そうした圧力が逆に関心を高め、自主上映の会場はどこも大入りだったそうだ。キネマ旬報の年間1位になるなど作品自体も評価された。衝撃的なラストは、当時の国民の司法への信頼の証しかもしれない。

 今はどうだろう。司法への疑念を拭えぬ事例は、最近だけでも幾つも頭に浮かぶ。冤罪(えんざい)の恐れが色濃い袴田事件の再審拒否や、諫早湾干拓事業を巡る判決のぶれだ。

 極め付きは、大飯原発3、4号機差し止め訴訟の控訴審判決である。名古屋高裁金沢支部は、差し止めを認めた一審判決を取り消し住民側の請求を棄却した。その理由を丸めて言うと、専門的な原子力規制委員会がOKしたから危険はさほどないということだろう。

 国内の原子力事故で史上最悪となった福島第1原発事故の反省はどこにあるのか。3・11前に先祖返りしたようだ。事故前の訴訟では、専門家の審査や政府に委ねる姿勢で原発の運転にお墨付きを与えてきた。しかし事故は起きた。

 国は新たにより厳しい基準を設けたが、クリアしたからといって「絶対安全とも事故ゼロとも申し上げられない」。規制委員長の言葉を司法はどう受け止めたのか。

 そもそも、専門家に任せておけばいいという姿勢は、科学技術との向き合い方として健全ではなかろう。原子力に限らず、遺伝子操作や人工知能(AI)など科学技術の高度化に伴い、悪用された場合の不安も増している。たとえ知識は不十分でも、国民が口を挟む機会は多い方がいいはずだ。

 本来、熟議の場であるべき国会の仕事かもしれない。しかし議論を深めようとしない政権の姿勢のため役割を十分果たせていない。

 原発訴訟で、裁判官が望めば科学論争を含む熟議ができた例は少なくない。議論を通して、高速増殖炉「もんじゅ」の蒸気発生器が破損する恐れを示す実験結果の隠蔽(いんぺい)などの事実も明らかになった。

 先祖返りの背景に最高裁の意向があると、かねて指摘されるが、真偽は不明だ。ただ町田顕最高裁長官が2004年、新任裁判官の辞令交付式で異例の訓示をしたことがある。「上級審の動向や裁判長の顔色ばかりうかがう『ヒラメ裁判官』がいるといわれる。私はそんな人はいないと思うが、少なくとも全く歓迎していない」

 ヒラメ裁判官の存在と、その弊害を最高裁が自ら認めた発言だろう。ただ、真に反省すべきは政権など長いものに巻かれようとする最高裁自身なのかもしれない。

 司法がおかしくなれば、国の先行きをゆがめる恐れがある。実例もある。ヒトラー率いるナチスの台頭を許したワイマール共和制時代のドイツだ。帝政時代からの座を守った裁判官たちは公正さを装いながら、ユダヤ人差別や共和制を攻撃する右派の犯罪には甘い判決を下すことで、共和制崩壊の道を開いた、と指摘されている。

 当時活躍したユダヤ人作家でスウェーデンに亡命したクルト・トゥホルスキーが、こんな言葉を残している。

 「それは、あしき司法というようなものではない。欠けたところのある司法でもない。それはそもそも司法ではないのだ」

 大飯原発の差し止めを求めた原告団は、控訴審判決を「不当」と批判したが、あえて上告はしなかった。「今の最高裁にはもはや何も期待できない」からだという。

 司法が信頼を取り戻せるか。3・11からどんな教訓を引き出し、どう生かすかにかかっている。

(2018年8月9日朝刊掲載)

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