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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図

光目指し外にはい出す

  ≪第二総軍司令部は爆心地から約1・8キロ。爆風で倒壊した建物に閉じ込められた≫

 吹き飛ばされて意識を失った後、気が付くと辺りは真っ暗でした。はりに阻まれ、動けません。周りからは「お母さん」「神様助けて」という同級生の悲痛な声が聞こえてきました。私はただ「死ぬのかな…」と思っていました。取り乱したりしなかったのが不思議です。

 そのうち、誰かに左肩をぐいとつかまれました。軍人さんが「諦めるな。左の方に光が見えるだろう。そこに向かってはって行くんだ」と励ますように言うのです。言われた通り、懸命に光を目指し、外にはい出しました。すでに背後で猛火が上がっていました。ほとんどの級友は、まだ建物の下。生きたまま焼かれました。私を生かしてくれた、あの軍人さんの消息も分かりません。

 外は夜のように暗く、まさに地獄絵図でした。腕を胸まで上げ、皮膚をぶら下げた人。飛び出た眼球を手に持つ人。幽霊のようにのろのろと歩き、折り重なるように倒れ込んでいきます。死体を踏まないように避けながら、級友数人と必死で逃げました。

 ≪隣接する東練兵場に達すると、そこも混乱の極みだった≫

 瀕死(ひんし)の人たちが「水を」と求めてきますが、バケツは持っていませんし、兵隊さんも「早く死ぬからあげてはならぬ」と言います。でも、放っておけませんでした。服を脱いで引き裂き、近くを流れ出ていた水でひたひたにして負傷者の口元に運びました。すると布をチューッ、と吸うんです。

 結果的に、何人の末期の水になったのでしょうか。私は建物の下敷きになった時に血まみれになったものの、大けがではありませんでしたから、日没までひたすら、水のある場所と負傷者の間を往復しました。

 あちこちで上がるうめき声を聞きながら、二葉山の茂みで夜を過ごしました。広島駅を挟んで向こう側に自宅があるのに、なぜか帰宅しないまま。家族や友だちは生きているのか―。手掛かりはありませんでした。自宅も、母校の広島女学院の校舎も焼け落ちてしまったとは、まだ知りませんでした。

(2018年8月9日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失

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