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「戦争は悲惨」 忘れまい 追悼式 中国地方388人参列

 終戦の日の15日、東京都千代田区の日本武道館であった全国戦没者追悼式に、中国地方から遺族388人が参列した。戦後73年。参列者は犠牲になった肉親を悼み、記憶を風化させまいとの思いを新たにした。

 広島県代表の倉田利昭さん(77)=廿日市市=は、父福田仁一さんをフィリピン・レイテ島で失った。「母と私たち兄弟3人を残し、さぞ心残りだっただろう」。戦後は母が郵便局に勤め、家計を支えた。兄弟はそろって工業高へ。早く働きに出る道を選んだ。「戦争は悲惨です。好きな勉強ができる幸せを忘れないで」と望んだ。

 山口県代表の三輪裕明さん(62)=山口市=は、海軍に召集され北太平洋で戦死した祖父行二さんの冥福を祈った。祖母や母から、田畑を耕しながら懸命に戦後を生きたと聞いている。「忘れられてはならない記憶。孫世代として、できる限り伝えたい」と誓った。

 「遺族会は高齢化が進んだが、若い人を巻き込んで守っていく」。島根県代表の山崎義興さん(80)=出雲市=も力を込めた。父敏義さんは、乗っていた軍艦がフィリピン・マニラ湾で沈没。自力で陸に上がったと伝え聞いたが遺骨は戻っていない。「恒久平和のため、記憶を継承しないと」

 岡山県代表の小谷孝佳さん(83)=真庭市=の父正夫さんは、フィリピン・ルソン島で戦死した。戦後、白木の箱を引き取ったが、入っていたのは紙切れ1枚だけ。遺骨は戻らなかった。「かけがえのない肉親を奪われ、遺族もみじめな戦後を送った。今の平和が英霊の犠牲の上にあることを忘れないで」と願った。

 鳥取県代表の長谷川冊子さん(76)=北栄町=の父弘さんは終戦直後、中国で他界。遺骨が戻ったのは50年後だった。元上官が富山県の自宅に保管していたのが見つかり、長谷川さんが引き取りに行ったという。「息子の遺骨に対面しないまま逝った祖母は、さぞ悲しかったろう。生き残った者にも苦しみを背負わせるのが戦争。あの時代に戻ってもらっては困る」

 原爆死没者遺族代表の川本美鈴さん(67)=広島市安佐南区=の祖父勝田善吉さんは、用務員として勤めていた宝町(現中区)の学校で被爆死した。鶴見町(同)の自宅で被爆した母も、戦後生まれの自身も、原因不明の頭痛を抱える。川本さんは「原爆のせいではと疑ってしまう。世界中の人は被爆地に足を運び、原爆の恐ろしさに触れてほしい」と望んだ。(田中美千子)

(2018年8月16日朝刊掲載)

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