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対馬丸の悲劇知って 広島で22日、初の慰霊祭 広経大教授が発案

 太平洋戦争中に撃沈された、沖縄の学童疎開船「対馬丸」の子どもを追悼する慰霊祭が22日、同乗の広島の陸軍部隊を弔う比治山陸軍墓地(広島市南区)で初めて営まれる。沖縄戦の調査を学生と続ける広島経済大(安佐南区)の岡本貞雄教授(66)が、被爆地での慰霊を発案。終戦の日の15日、「子どもの命を理不尽に奪った他の戦災にも目を向けてほしい」と願う。(明知隼二)

 沖縄の学童を九州に疎開させるため、1944年8月21日に那覇港を出港した対馬丸。翌22日夜、鹿児島県沖で米潜水艦に撃沈された。乗船者1788人のうち、判明しているだけでも学童784人を含む1482人が犠牲となった。広島に拠点を置いた暁部隊(陸軍船舶司令部)の船舶砲兵41人も護衛のため同乗し、21人が戦死した。

 慰霊祭は、同日に那覇市である慰霊祭と同じ午前11時から、陸軍墓地の船舶砲兵部隊の碑前で営む。黙とうをささげた後、呉海洋少年団の団員が沈没地点の方角に向け、手旗信号で「平和の祈り」と慰霊のメッセージを送る。沖縄戦の遺族による対馬丸の講話もある。

 広島と沖縄を結ぶ慰霊の縁。紡いだのは、対馬丸に乗った船舶砲兵部隊の隊員で唯一戦後まで生き残り、兵庫県伊丹市で暮らした故吉田董夫(ただお)さんだ。那覇市の対馬丸記念会常務理事の外間邦子さん(79)によると、吉田さんは生前、毎年欠かさず那覇市での慰霊祭に参列。「死を覚悟していた私たち兵隊とは違う」と、子どもたちの犠牲に心を痛め続けたという。

 77年建立の船舶砲兵の慰霊碑横にある銘板は「対馬丸乗船 沖縄疎開学童之霊」と刻む。昨夏見つけた岡本教授が記念会側に知らせたことで、改めて両地の交流が始まった。

 外間さん自身、国民学校5年と3年だった姉2人を対馬丸で失った。「沖縄の子どもの未来を一瞬で奪った悲劇。広島でも受け継いでもらえるのはありがたい」と感謝する。岡本教授は「被爆地の同世代の子どもたちにこそ、対馬丸の悲劇を知ってほしい」と、参加を呼び掛けている。岡本研究室☎082(871)1476。

(2018年8月16日朝刊掲載)

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