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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動

炭鉱町で運命の出会い

  ≪広島女学院大4年の夏休み、国際キリスト教ワークキャンプで北海道美唄(びばい)市の三井炭鉱に派遣された≫

 労働組合活動や子どもの遊び場のため、集会所を建設する奉仕活動です。そこに関西学院大で英語を教えるカナダ人宣教師、ジム・サーローがいました。

 穏やかで人一倍の働き者。信仰について議論すると「私たちは社会悪に挑む勇気を持たなければならない」ときっぱり言う。尊敬できる人、というのが最初の印象です。

 一目でぴんときたわけではなかったんです。大勢で材木を担いだり、セメントを混ぜたり、重労働の毎日でしたから。ただ、彼は違ったようです。キャンプが終わると、大学のある西宮(兵庫県)から谷本清牧師を訪ねては広島流川教会に滞在し、私と会うようになりました。誠実な人柄に触れ、「ああ、この人なら」と確信を強めていきました。

 私は既に米国留学を決めていましたが、ジムの赴任期間は残っていました。彼としては葛藤があったでしょう。一方で両親は、私たちが心を寄せ合っていくのを懸念していました。親の賛成を得ず結婚に踏み切ることは、とても考えられませんでした。結局、ジムとも両親とも離れての留学という初心を貫きました。

 ≪大学卒業後の1954年夏、米東部バージニア州へ≫

 名古屋から米国行きの船が出る直前、ジムは誰からも見えないよう、ポケットからそっと指輪を取り出しました。思いがけないことでした。

 寄港地のシアトルに着き次第、平和活動家のフロイド・シュモー博士に会う予定でした。女学院大の近くで被爆者の家を建てる奉仕活動をされていた時に知り合ったんです。西海岸ではシュモー博士、東海岸ではリンチバーグ大のジョセフ・ハンター博士が連携してお世話してくれる手はずでした。

 ところが大海原での2週間は、悪天候でもう大変。入港地が変更され、シュモー博士に会えないままロサンゼルスに住む長姉文子を訪ねました。船代は大学婦人協会という米国の団体が出し、授業料は大学の奨学金で、となっていましたが、米国を横断する航空券は文子が用立ててくれました。

(2018年8月18日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚

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