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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚

発言に波紋 苦悩も経験

 留学先のリンチバーグ大(米バージニア州)に到着した1954年夏、早々に「事件」が起きました。

 太平洋のマーシャル諸島で米国が水爆実験を行い、第五福竜丸が「死の灰」を浴びて半年後でした。新聞社から取材され、「広島と長崎は核実験の始まりではなく終わりにしなければならない」と批判すると、「真珠湾攻撃を忘れるな」「日本に帰れ」、さらには「殺すぞ」と脅迫する手紙が次々と届いたんです。

  ≪被爆者として原爆投下国に来たことの意味を考え苦悩した≫

 部屋に閉じこもり、恐怖と孤独に震えました。でも、自分の発言が間違いだとは、どうしても思えなかった。苦しんだ末の決心は「私は沈黙しない。語り続ける」。被爆者としての人生の新たな一歩でした。

 学内の集会やロータリークラブで被爆体験を進んで語りましたね。猛勉強の傍ら、学生たちと積極的に交わりましたし、傷ついた経験以上に、温かな出会いに恵まれました。

 ただ、55年2月に異国の地で父の訃報を受け取った時は、悲しみと感謝で胸が張り裂けそうでした。息を引き取る前、ジム・サーローとの結婚の承諾という最高の贈り物を残してくれていたのです。後で知ったのですが、谷本清牧師が私たち2人を心配して、両親を懸命に説得してくれていたそうです。

 ≪留学期間の終了を待ち、日本赴任を終えたジムと7月に結婚≫

 当時、バージニア州には白人と非白人の結婚を禁じる州法があり、ジムの母国カナダは、国内に親族を持たない人の移住を厳しく規制していました。ですから、人種差別法のない首都ワシントンに行って式を挙げたんです。何と、被爆によるケロイドに苦しむ女性たちに治療を受けさせるため、ニューヨークに来ていた谷本先生が駆け付けてくれました。父の代わりを務めてくれたのは母方の親戚。後に戦争中の日系人の強制収容を巡る補償法を勝ち取ったロビイスト、マイク・正岡です。

 今年5月、リンチバーグ大を再訪しました。ヒロシマを伝え、バッシングを受けてから64年。名誉博士号をいただき、講演で核の被害のむごさを学生に説きました。「語り続ける」。思いを新たにしています。

(2018年8月21日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー

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