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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー

目指した職業へ第一歩

  ≪1955年夏、夫ジムとカナダのトロントで暮らし始める≫

 新婚生活を送りながらも、福祉を学問として学ぶという初心を忘れることはありませんでした。9月には、ソーシャルワークを学ぶためトロント大大学院へ進みました。キャンパスは、カナダ最大都市のど真ん中。新しい環境での挑戦でした。

 研究テーマは、当事者同士の語り合いを通じて家庭や学校、地域が抱える課題に取り組む「グループワーク」の理論と技術。特に実習では、突き詰めながら自らを問う連続でした。貧困、家庭内暴力などの問題を抱える人たちに対して、一瞬でも「上から目線」になっていないか。いつも尊厳ある人間として相手に接しているか―。

 日系社会における意思決定や意識の世代間格差を研究し、2年後に修士号を取得しました。もう、死にものぐるいで勉強しましたね。

 ≪結婚、大学院、そして出産と子育て。忙しい中でキャリアを追求する≫

 58年にジムが再び日本に赴任し、関西学院大で歴史学の教べんを執りました。私も同行し、59年に長男ピーター、61年に次男アンディを出産。トロントに戻った62年には、かわいい家族が2人増えていました。

 カナダ式の家事を懸命に身に付けましたよ。毎週木曜に買い物リストを書き、スーパーマーケットで大きなカートを押しながらまとめ買い。床は毎週必ず磨いて、ベッドシーツはアイロンがけ、という具合に。

 幸せな毎日の中で、65年にはYWCAでソーシャルワーカーとしての一歩を踏み出します。家で子育てに明け暮れる母親たちを集め、社会や政治を学ぶ教室を企画したりしました。女性が知識を持ち、決定権を持って生きてもらうための試みです。

 70年にはトロント市教委に職を得ました。今のトルドー首相のお父さんの政権で、「サラダのような」多民族国家を目指した頃。国民を分断するのでも、無理に混ぜ込むのでもなく、それぞれが個性を発揮し共存する社会です。多様な背景を持つ子どもたちに寄り添うには、大人も多様性が必要です。当時トロントでは、日本語を話せるソーシャルワーカーは私だけだったんです。

(2018年8月22日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務

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