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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援

屈辱に怒り 法廷で叫ぶ

  ≪広島市の原爆資料館から資料90点の提供を受け、カナダ・トロントでの被爆30年の原爆展にこぎ着けた≫

 トロント市長の賛同も得たことで、会場は市庁舎という最高の場所。大盛況でした。こちらから働き掛ければ、関心を持つ市民は必ずいる、と確信できた。この活動を続けよう、という声が上がり、「ヒロシマ・ナガサキに学ぶ会」の結成につながりました。その後、地域の市民団体を束ねる組織に発展。市庁舎前の広場で43年間、原爆の日に合わせ記念式典を続けています。

 私自身、平和教育と反核運動に注力していきました。とはいえ、北米での活動は反共主義者の憎悪の的になりがちですし、苦労もあります。

 米国で平和集会に出席した際は、会場を反対派に囲まれ、唾を吐きかけられました。82年に首都オタワに招かれ、スピーチした「原爆の絵」展の開幕式は、爆破予告で大騒ぎに。私は既に中座しており巻き込まれなかったのですが、後で知って背筋が凍る思いでした。

 反核運動家の支援にもたびたび加わりました。米国の核兵器工場に侵入して逮捕された7人の裁判で、83年にマサチューセッツ州に出向いた時に受けた屈辱は忘れられません。

 被告側から核被害の実態を証言するよう要請され、ベトナム戦争に関する米国防総省の秘密文書を暴露したダニエル・エルズバーグさんや国際法の専門家と出廷。ところが案の定、裁判長が意地悪で、証言前の資格審査で「広島は遠い過去のことだ」と証言を認めないのです。

 被爆者の苦悩を全否定したに等しい。黙っていられなかった。「今も広島では人が死んでいるのよ!」と力の限り叫び、法廷は騒然となりました。すると被告の一人が私の隣に駆け寄り「われわれは決して排除されないぞ」という公民権運動を象徴する曲を歌い始めたのです。他の被告も次々と加勢。裁判官の面前で肩を組み、声を合わせました。

 広島や長崎の人たちから注目されないまま、非暴力・不服従行動を通して命懸けで核兵器廃絶運動をしている人たちがたくさんいます。彼らの献身に、行動で応えたかった。7人とも有罪判決を受け、力が及ばなかったのは本当に残念でした。

(2018年8月24日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <16> 軍縮・平和教育

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