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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <18> 反核の同志

夫失う悲しみ胸に歩む

 もし再び、核が使用されたらどんな状況になるのか―。具体的に検討することで、被爆体験に「理論」が付け加わっていくプロセスが2010年以降、強まりました。ノルウェー、メキシコ、オーストリアの各政府主催で計3回開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」です。

 2、3回目に出席してスピーチをしたのですが、「非人道性兵器の違法化」への機運が官民で大きなうねりとなっていくのを体感しました。14年12月の第3回では、オーストリア政府が、間接的な表現ながら「核兵器禁止条約の制定を目指す」と誓う文書を発表したのです。これこそ、数十年間求めていた言葉でした。私が森滝市郎先生から最初に反核思想を学んでから、約60年。会議で同席した娘の春子さんと抱き合い、泣きました。

 でも、実は感動と同じぐらい怒りも収まらなかった。日本とカナダという私の二つの母国が禁止条約に背を向け、恥ずべき実態がますますあらわになったからです。日本は形だけ会議に出席し、議論に水を差すばかり。がくぜんとしました。

  ≪自分の人生を変えた、大切な人への感謝をかみしめた時期でもあった≫

 11年4月、夫ジムが息を引き取りました。彼は人生のパートナーであり、反核運動の同志でした。私の講演原稿全てに目を通し、助言は常に的確。大きな支えを失いました。

 長男ピーターは経済学者として中東で暮らし、孫2人は成人。今、近くに住む次男アンディが私の活動の支えです。ジムの遺骨は半分を家に置き、変わらず共にいます。いつか彼の元へ行ったら、一緒に瀬戸内海にまいてもらいたい。悲しみを力に変えて、私は再び歩んでいます。

 もう一人はわが師、谷本清牧師です。私の北米での活動は、期せずして谷本先生の足跡を知る旅でもありました。米国の原爆投下責任を問い続ける私と、スタンスが一致しているわけではないんです。でも、敗戦間もない時期から全米を巡り、原爆被害を知らしめた功績は偉大です。

 4年前、公益財団法人ヒロシマ・ピース・センターから谷本清平和賞を頂きました。「いつも先生の後を歩いてきたんですよ」と心の中で語り掛けたのでした。

(2018年8月29日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <19> 条約交渉会議

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