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社説・コラム

『論』 市女碑の表象 女性史から見えるものは

■論説委員 森田裕美

 広島市の平和記念公園で慰霊碑巡りをしていると、修学旅行生を案内する地元の高校生たちを見かけた。その昔、筆者も公園内外の碑を解説するボランティアをした。広島の高校生とはいえ、被爆体験のない世代がそれぞれの碑の成り立ちを調べ、伝える活動は、奪われた命や残された人の思いに迫る貴重な機会であった。

 公園の南にある広島市立第一高女(市女、現舟入高)の慰霊碑は当時から印象が強い。現在の公園一帯の建物疎開作業に動員された1、2年生が全滅し、市内で最多の学徒死没者をみた学校だ。銘板には生徒と教員676人の名が刻まれている。

 碑の表面に彫られた少女像も独特だ。アインシュタインが相対性理論から導き、原爆製造にも応用された公式を刻んだ箱を抱えた、おかっぱ頭の少女に両側から花輪とハトを手にした少女が寄り添う。「公式」は「占領下につくられ、原爆犠牲者の碑であることを大っぴらにできなかった事情を表している」と習い、訪れた人にもそう案内していた。それ以上深く考えたことはなかった。

 久しぶりに碑を巡ったのは、舟入高出身で横浜市在住の女性史研究家江刺昭子さん(76)が編著書「原爆と原発、その先」に収めた論考「広島市立高等女学校原爆慰霊碑の表象をめぐって」を読み、目を開かれたからだ。

 江刺さんは2001年ごろからほぼ10年、母親の介護でしばしば広島に戻っていた。その折、目にしていた市女碑、とりわけこの独特な少女像が、心に引っ掛かっていたという。

 碑は被爆3年後の1948年に造られ、57年に現在の平和記念公園南に移設されている。江刺さんは建立の経緯を丹念に調べ、当時の政治状況などを照らしながら、論考でこう指摘する。「市女碑が背負わされたのは、科学技術の実験とそれを戦略的に具体化する、米国と日本の国策に翻弄(ほんろう)された歴史といっていい」

 どういうことか。江刺さんは、57年に移設した際に設けられたという説明碑の一文を示す。

 <国家の難に挺身(ていしん)した可憐(かれん)な生徒たちを「あなたは、原子力の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となったのです」と慰めている姿をあらわしている>

 これでは、少女が抱く「公式」が表すのは原爆ではなく、当時日本が米国の後ろ盾を得て推し進めた「平和利用」の原子力ということになる。犠牲者はそのための「人柱」だというのだろうか。

 この間に背後で進んでいたのは米国の核戦略だ。53年にアイゼンハワー米大統領が「平和のための原子力(アトムズ・フォー・ピース)」を提唱し、54年には日本で原子力関連予算が計上される。56年には被爆地でも原子力平和利用博覧会が開かれ、57年には茨城県東海村に原子炉ができている。

 「少女たちの死を、『可憐な生徒』と美化したり聖化したりすることで、被爆者や遺族の怒りと悲しみを、原子力が人類の幸福と繁栄につながるんだという夢に、収れんさせる思想が働いた」と江刺さん。原爆被害は過小評価され、日本は原子力を受け入れていく。そうした歴史の流れの先に福島第1原発事故があるとみる。

 慰霊碑そのものは犠牲者を悼み、悲劇を繰り返さぬよう願って造られたものに違いない。時代背景もある。ただ、それらを踏まえた上で、現代から、これまで語られてきた「ヒロシマ」を問い直す作業には、新たな発見がある。

 江刺さんのそうした試みを支えているのは、長年女性史研究で培った視点だ。かねて歴史は男性を中心に編まれてきた。「半分を占める女性の歩みがきちんと記録されてこなかった」。公的な文献には記述の乏しい女性の歴史を調べ、評伝なども書き続けている。

 既存の歴史に、別の角度から肉薄する女性史の試みは、私たちが教科書でしか知らない過去の出来事も、リアルに立体的に見せてくれる。それは、被爆を体験した人の肉声が失われていくこれから、記憶を継承する上でも一つのヒントになるのではないか。

(2018年9月27日朝刊掲載)

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