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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 加藤義典さん―迫る火 児童の命救えず

加藤義典さん(90)=広島市西区

思い残す学校に地蔵。あの日の証し

 助けられなくて、ごめんね―。加藤義典さん(90)の心の中で、ずっとこだまする言葉です。17歳で被爆した当日、段原国民学校(現段原小、広島市南区)で校舎の下敷(じ)きになった児童を必死に助けようとしましたが、猛火(もうか)の中に小さな命を残すしかありませんでした。

 当時は広島大工学部の前身、広島工業専門学校1年生。授業のないまま1945年7月まで呉海軍工廠(こうしょう)へ動員されていましたが、呉空襲で焼け出され、命令で自宅のある広島市内へ。父は2年前に病死し、母は弟3人を連れ田総(たぶさ)村(現庄原市)の実家へ疎開したので、叔父叔母(おじおば)と同居していました。

 原爆投下の8月6日は、入学後初の授業のはずでした。爆心地から約3・4キロ離(はな)れた大洲町(現南区)の中国配電大洲製作所で、同級生と机を共にすると、やっと勉強できる日に胸が躍(おど)りました。物理の授業が始まった時、ピカッーと光が突き刺(さ)さります。直後に天井(てんじょう)が落ち、真っ暗になりました。

 互(たが)いに無事を確かめ合い、外に出てはっと気付きました。青空に大きなきのこ雲。友人と京橋町(現南区)の自宅へ帰り始めると、顔が膨(ふく)れ、裸(はだか)のような人たちが、道にぞろぞろはい出しています。何事か聞いても分かりません。

 自宅周辺は火勢が強く、近寄れません。そんな時、「下敷きになった子どもを助けてくれ」。男性に手をつかまれました。段原国民学校の先生でした。学校に着くと、つぶれた校舎の下から児童の顔が7、8人、目に入りました。真上からは火が迫(せま)っています。

 子どもを引き出そうとしますが「痛いよ」。校舎に挟(はさ)まれた体を痛がります。「がんばれ」。粘(ねば)りました。ただ火の手は容赦(ようしゃ)ありません。最後、女の子に水を飲ませ、その場を離れました。友人と助け出せたのは1人だけ。東練兵場へ着いた時は放心状態でした。

 日暮れ前、自宅へ向かおうと通り抜けた泉邸(せんてい)(現縮景園)も地獄(じごく)のようでした。池に頭を突っ込(こ)んだ無数の遺体。水の引いた川に下り京橋の下まで来た時、叔母と再会できました。

 翌7日、叔父を勤務先の広島郵便局の焼け跡で捜(さが)しましたが、手掛かりは見つけられないまま。諦(あきら)めきれない叔母を説得し、母の実家へ向かうことに。8日、芸備線の玖村駅辺りまで歩いてから汽車に乗れました。

 9月の終わり、ごそっと髪(かみ)が抜け「自分も死ぬんかな」。覚悟(かくご)はありました。年が明け、髪が生え始めると、生きる元気がわきました。

 卒業後は中国電力に入社。27歳の時、結核(けっかく)を患(わずら)って入院した広島赤十字病院で佐々木禎子さんと出会いました。「お兄ちゃん」と慕(した)ってくれた少女は自分が退院した後、白血病のため亡くなりました。

 段原国民学校で命を落とした子どものことも伝えなければと思い、筆をとり、記憶を絵に残しました。

 被爆30年ごろから、8月6日になると人知れず段原小へ祈りに行くようになりました。自らの体験を明かす手紙を同小に送り、児童へ証言するようになったのが被爆から半世紀。救えなかった子どもたちが亡くなった場所に地蔵を寄贈(きぞう)し、あの日の証(あか)しにしました。

 証言活動も老いには勝てず、今年を最後にしましたが「今の子どもがさらに伝えてくれれば、あの子たちも喜んでくれる」。命がはかなく消えていく時代が二度と来ないよう、手を合わせます。(山本祐司)

私たち10代の感想

戦争 何度も心苦しめる

 加藤さんが自分だったらと考えると、何度も苦しむでしょう。1度目は学徒動員で勉強できなかった時。「ラッキー」かもしれませんが、勉強しようと思って進学したのだから、つらいと思います。2度目は子どもを助けられなかった時。特に女の子を諦(あきら)めて逃(に)げなくてはいけなかったのは、後々まで悩(なや)みます。人の心を何度も何度も苦しめる。それが戦争です。(高1伊藤淳仁)

核の危険 人ごとでない

 加藤さんは、若者に核兵器や原爆の問題に対してもっと関心を持ってほしいと強調しました。それは10代で被爆し、「あの日」のすさまじい記憶が鮮明(せんめい)に残っている加藤さんだからこそ、最近の核兵器を取り巻く状況(じょうきょう)を危険だと感じられるのだと思います。僕も人ごとではないと気付きました。自分の子や孫のためにできることを、考えないといけません。(高3岩田央)

(2018年10月1日朝刊掲載)

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