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社説・コラム

『言』 女性たちのシベリア抑留 語られぬ歴史 光当てたい

◆近現代史研究家 青木康嘉さん

 敗戦から73年が過ぎた今も十分な実態解明がなされていないシベリア抑留。その中に従軍看護婦ら女性が数百人含まれていたことはなおさら知られていない。岡山市の近現代史研究家青木康嘉さん(66)はその足跡を追い、「佳木斯(ジャムス)の看護婦―シベリア抑留された女性の運命―」を自費出版した。語られてこなかった女性の抑留体験を、次代につなぐ意義や思いを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真も)

  ―抑留者に女性もいたのですね。なぜ調査を。
 岡山から満州に渡った開拓団や義勇隊などを長く研究してきた私のところへ4年ほど前、テレビディレクターから問い合わせがあったのがきっかけです。その際、私がかつて調査した七虎力(しちこりき)開拓団にいた男性の娘さんが、シベリア抑留されていたと聞きました。初耳でした。しかも彼女は県内に健在と分かり、何度も会って関連資料の提供も受けました。歴史のパズルを埋めるように調べ始めました。

  ―どうやって進めましたか。
 彼女の紹介で、他にも話を聞ける人に会いました。体験に耳を傾けながら古い手記や記録など文献に当たり、旧満州(中国東北部)やシベリアにも出掛けました。証言を史料や実地で、裏付けていきました。

  ―旧ソ連地域に抑留された人は厚生労働省の推計で約57万5千人とされていますが、女性は何人くらいいたのですか。
 ロシア側の資料によると367人が抑留されています。戦後の陸軍病院の友の会(佳院会)の資料などによればそのうち約150人は、旧ソ連と国境を接し、現在の中国黒竜江省にある佳木斯の看護婦でした。その中には日赤の広島・岡山両支部や陸軍病院の看護婦、佳木斯高等女学校の生徒や会社勤めの女性を3カ月の訓練で急きょ育成した看護見習い生(菊水隊)もいました。

  ―収容所ではどんな生活を。
 最初は極寒の中で薪取りやジャガイモを掘って運ぶ肉体労働に駆り出されたようです。1946年の春ごろからは各地の収容所の看護業務を担い、病気や飢えに苦しむ男性捕虜をみとりました。女性抑留者の多くは敗戦から2年半ほどで帰国していますが、本当の苦しみは帰国してからだったようです。女性でなければ味わうことがなかった偏見や苦労がありましたから。

  ―どういうことですか。
 「(洗脳され)アカ(共産主義者)になったのでは」という差別は男性抑留者にもありましたが、女性の場合は特に「ソ連兵に何かされたのではないか」という偏見もありました。何とか帰国できても、戦争で家族が全滅して身を寄せる家もなく、生きるのに精いっぱいの人も少なくありませんでした。生活の糧を得るのに男性以上に苦労もあったでしょう。シベリア抑留体験が知れると結婚が難しくなったり故郷に居づらくなったりするケースもあったそうです。

  ―女性のシベリア抑留体験が男性以上に語られなかった背景にはそんな事情もあるのですね。
 はい。男性抑留者に比べて圧倒的に母数が少ないこともあるでしょうが、自ら口を閉ざした人は多いはずです。

  ―著書ではそんな一人一人の人生を丹念に追っていますね。
 ひとくくりにすると見えなくなる事実がたくさんあります。シベリア抑留はよく、極寒、飢え、重労働といった三重苦でステレオタイプに語られますが、そこだけ語ると女性たちの体験は歴史から抜け落ちてしまいます。個別の体験に迫ることで、シベリア抑留の全体像もよりリアルに見えます。戦争の実感がない若い世代にも関心を持って学んでほしい。そのためにも「人間」を中心に記録する必要がありました。

  ―記録は重要ですね。
 今回、長く語られてこなかった歴史の証言を裏付けるのに日赤や病院関係の記録が大変役立ちました。日本は敗戦時にも軍の資料を焼却するなど、記録文書を重んじてきませんでした。歴史を記録する資料は、次の世代が歴史を知り、将来を考える上で不可欠な人類の財産です。その時代の権力者の都合の良しあしに関係なく、残していかねばなりません。

あおき・やすよし
 岡山市生まれ。青山学院大卒。岡山県の公立高社会科教諭、関西高教頭を経て、現在は興譲館高非常勤講師。その傍ら、地元ゆかりの満蒙開拓団や中国残留孤児の足跡をたびたび訪ね、調査研究を続ける。著書に「大地の叫び」「大地の青春」など。

(2018年10月17日朝刊掲載)

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