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社説・コラム

『言』 問い直す原爆投下 日本の戦争責任も直視せよ

◆歴史学者 長谷川毅さん

 原爆が太平洋戦争を終結させた―という広島、長崎への投下肯定論が根強い米国で2005年、「原爆よりもソ連の対日参戦の方が日本降伏の決定打となった」とする「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」が出版され、論争を巻き起こした。その著者で米国在住の歴史学者の長谷川毅さん(77)に、被爆地から何をくみ取るべきか聞いた。(ヒロシマ平和メディアセンター・金崎由美、写真も)

  ―多くの歴史研究者が取り組んできた分野ですが、自身の論考が特に話題になったのはなぜでしょうか。
 日本と米国にソ連の分も含めて3カ国語の1次資料を突き合わせ、各国の政治過程を国際関係史として分析した研究書は初めてでした。その中で、スターリン率いるソ連が、米国の原爆投下決定と日本の降伏の両方に多大な影響を与えた実態を解き明かしました。それまで「ソ連ファクター」は過小評価されていたのです。強い批判を受けましたが、膨大な資料による研究成果には自信を持っています。

  ―米ソ間の不信感の高まりと、激烈さを増す駆け引きの様子を詳細に描いていますね。
 対日戦争の終結を目指したトルーマンは、日本に無条件降伏を迫るか、あるいは天皇制存続は認めるべきか、考えていました。1944年末にソ連の対日参戦という密約を米ソ間で交わしていたものの、その通りでいいのか、という疑念もあった。これらのジレンマを一掃したのが原爆開発の成功です。

  ―どういう意味ですか。
 45年7月26日の「ポツダム宣言」では無条件降伏というハードルを課して原爆使用の正当化へ布石を打ち、かつソ連参戦に先駆けて原爆を落としました。トルーマンには、真珠湾攻撃への強い報復心がありました。

  ―ソ連はどう動いたのでしょうか。
 対米交渉の仲介意思をちらつかせて日本を欺き続け、8月6日に広島へ原爆が投下されるや日ソ中立条約を破棄し満州(現中国東北部)へ侵攻。日本降伏の前に間に合わせて参戦し、中国での権益と領土獲得への欲をむき出しにしたのでした。

  ―「既に日本は降伏同然だった」とする投下批判論とも一線を画していますね。
 日本は、全国の都市が空襲で焼かれた末に広島が壊滅しても、その3日後まで最高戦争指導会議を開かず、ソ連に頼る方針を継続させたのです。だからこそソ連参戦は衝撃でした。政治の意思決定過程が機能不全のまま、戦争を長引かせました。ソ連の中立維持を信じ続けた戦略音痴ぶりも深刻でした。

  ―自国民の命を優先する意識の欠落ぶりも、痛感します。
 天皇制をどう守るかが最優先課題でしたから。最終盤での昭和天皇の「聖断」が終戦を決定づけたことは確かですが、それまでは天皇自身もソ連仲介に望みを託しており、あくまで皇室の安泰が最大の関心事。ただし歴史研究としては、日本が無条件降伏に転じた過程をつぶさに解明するには至っていません。天皇の戦争責任論につながりかねないため日本ではタブーかもしれませんが、さらなる研究が求められます。

  ―私たちも原爆投下の「あの日」だけでなく、あの戦争全体を捉えるべきですね。
 同盟国ドイツの降伏や沖縄戦終結、ポツダム宣言という節目を逃さなければ、原爆被害も北方領土問題もなかったのです。日本の戦争責任として、原爆を問うべきです。

 一方で、市民が住む都市への原爆投下は戦争犯罪です。米国で「原爆は必要悪」という神話を信じる人たちは、政策決定と、きのこ雲の下の残酷な現実が結び付いていない。過去の反省がなければ、核兵器は再び使われるかもしれません。日本と米国、そしてロシアも、自国の歴史を都合良く見るのではなく、負の遺産を直視する覚悟が問われています。

  ―トランプ政権下で、米国の機運は後退していませんか。
 逆風ではありますが、「原爆投下は過ちだった」と考える若者は増えています。生存者の記憶は重要です。ヒロシマを繰り返させない。ナガサキを最後の被爆地に。決意する声は、多くの米国人に重く響いています。

はせがわ・つよし
 東京都生まれ。東京大教養学部卒。米ワシントン大で博士号(歴史学)。北海道大スラブ研究センター教授などを経て、16年までカリフォルニア大サンタバーバラ校歴史学部教授。現在は名誉教授。「暗闘」(日本版は06年、中央公論新社刊)で吉野作造賞と司馬遼太郎賞受賞。専門はロシア史。米国籍。

(2018年10月31日朝刊掲載)

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