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被爆直後「忘れない」 旧広島陸軍被服支廠の若者25人、ノートに

米国に怒り再建誓う

 被爆建物の倉庫が残る旧広島陸軍被服支廠(ししょう)(広島市南区)に勤め、被爆した若者たち25人が1945年8月下旬、米軍の原爆投下への心情などを記したノートが見つかった。米国への憤りや生活再建の決意が記され、こぞって「八月六日を忘れない」と誓っている。寄贈を受けた原爆資料館(中区)は「被爆直後の若者の率直な思いがまとまって伝わる貴重な資料」としている。(水川恭輔)

 ノートは被服支廠の元工員で16歳で被爆した堀本初代さん(89)=岩国市=が保管し、8月末に家族が同館に届けた。終戦後、山口県内に帰郷する堀本さんへの寄せ書きの形で寮で一緒だった同僚たちが1ページ(縦15センチ、横21センチ)に1人ずつ思いをつづっている。一部を除いて執筆日があり、いずれも8月20日ごろから数日間で記されたとみられる。

 爆心地から約2・7キロの被服支廠は臨時救護所となって負傷者が押し寄せ、次々と息を引き取った。ノートの文面は「八月六日忘れるに忘れられない、にくい米英最後までやっつけませうね」(現柳井市出身の女性)「友達が余た死し八月六日 仇討(あだうち)で置くべきや」(現呉市出身の男性)などと終戦後も収まらない米国への怒り、憎しみが目立つ。

 当時16歳だった元工員の花園良志枝さん(89)=三次市=は、旧姓「竹中」名で「あの八月六日を忘れないで働きませう」と記していた。空襲に備え、被服支廠が機能を分散させるため現西区己斐地区に設けた工場で被爆。広島県北の同じ集落出身の同僚は命を落とした。

 花園さんは戦後、夫と農業をしながら子ども2人を育て上げ、今はひ孫もいる。73年前の自筆文面に「服がぼろぼろで裸のようになったけが人など、被爆時の悲惨な記憶を思い出す。多くの市民が犠牲となる中、助かった者の務めとして『働きませう』と書いたのだと思う」と目を細める。

 ノートには、花園さん同様に「あの日(八月六日)を忘れないで共に頑張りませうね」(現柳井市出身の女性)などと誓う記述が多い。資料館学芸課は「原爆投下から1カ月経たないうちに、『八月六日』『あの日』と呼んで被爆の記憶を決意している点も注目される」とみる。被服支廠の関係者が被爆直後に記した文書自体が珍しいという。

 寄贈について、ノートを保管してきた堀本さんに代わり、長男の尚さん(63)=岩国市=は「現存する被服支廠の倉庫と合わせて、被害の実態や被爆者の思いを伝えるのに役立ててほしい」と話す。同館は来年以降の新着資料展で展示する。

広島陸軍被服支廠
 1905年に陸軍被服廠広島派出所として設けられ、07年に支廠に昇格。軍服、軍靴、軍帽などを生産、修理、保管していた。各地から多くの若者が勤め、一時は10代の工員向けの青年学校もあった。被爆直後に臨時救護所となった鉄筋赤れんが張りの倉庫4棟(13年完成)が現存している。

(2018年11月1日朝刊掲載)

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