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母校で初の被爆証言 ハワイ在住 本川小卒業生のハイキさん

「伝えるのが私の使命」 戻らぬ母・焼け落ちた家・中学に通えず…

 米ハワイ・オアフ島に住むハイキ(旧姓大久保)光子さん(85)が、被爆前に卒業した本川小(広島市中区)を訪れ、5、6年生に体験を証言した。大勢の前で、しかも日本で語るのは初めて。「戦争も核兵器も絶対に反対」。爆心地に最も近い母校で、心を込めて訴えた。(金崎由美)

 本川地区の住民らが発行を計画する被爆証言集への寄稿を、関係者を通じて依頼されたのがきっかけ。一時帰国の機会に卒業以来という母校訪問を希望した。

 ハイキさんは本川国民学校(当時)を卒業して広島実践高等女学校(現・広島修道大付属鈴峯女子中)に進学。西観音町(西区)にあった自宅から電車で宮島方面に通学中、被爆した。

 母は勤労奉仕に出たまま戻らず、家は焼け落ちた。身を寄せたバラックは翌月に枕崎台風の直撃を受け、程なく祖母も亡くなる。「あるだけの木ぎれを集めて火葬したのに、1日たっても生焼け。そこまで火力が必要かと」。児童を前につらい記憶をたどった。

 知人を頼って父と山口市に移り、弟2人を懸命に世話した。中学には全く通えなかった。17歳の時、米軍が接収した福岡の旧雁ノ巣飛行場の売店で働き始め、後に夫となるジョンさん(97)と出会う。その間、父も白血病で他界した。1956年に結婚した後ハワイに渡った。

 「原爆で全て失った」というハイキさんだが、「今は幸せです」と率直に語った。英語を身に付けて長年働き、子ども3人と孫6人に恵まれた。今回の里帰りは長女の夫ブライアンさん(56)が同行してくれた。

 今年1月、ハワイでは北朝鮮の弾道ミサイル発射を告げる警報が誤作動した。避難を呼び掛けるニュースに、「核兵器が使われたら対処は不可能なのに」と怒り、震えた。「多くの人に原爆の怖さを伝えるのが私の使命」と思っている。

 児童が合唱する校歌を万感の面持ちで口ずさんだハイキさん。ハワイの人たちの温かさを知るからこその思いも伝えた。「もし国同士が戦争になっても市民は憎み合ってはいけない。人間同士で知り合うと、いい人なんです」

(2018年11月13日朝刊掲載)

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