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社説・コラム

『この人』 秋篠宮家の悠仁さまに被爆体験を証言した 山本玲子さん

亡き級友らの思い込め

 「20分くらいだったけれど、うなずきながら聞いてくださり、携えた写真も熱心にご覧になられました」

 秋篠宮家の長男、お茶の水女子大付属小6年悠仁(ひさひと)さまへの被爆証言をそう振り返る。紀子さまに伴われて初めて8月10日に広島市を訪れ、原爆慰霊碑に黙礼し、原爆資料館を見学。その際に、小学1年時の体験を中区のホテルで伝えた。

 1945年8月6日は、市外祇園町(現安佐南区)の長束国民学校運動場にいた。B29だ!。叫び声に見上げた瞬間、「太陽が落ちたのかと思った」。爆心地から約4・1キロ。土煙で黄土色に覆われた校庭から級友と手をつないで逃げた。

 山あいの実家には放射性降下物の黒い雨が降り、やけどを負った人々がやって来た。上半身裸の女児を連れた女性が抱く乳児は死んでいた。皮膚が服に絡まる男性は縁側に倒れこみ、母や祖父母らと救護に当たったが翌日に死去。校庭は遺体でいっぱいとなった。

 修学旅行シーズンは月に5~8回は担う。資料館が仲介する証言者(現在は42人)に研修を受けてなったのは2014年。ピースボランティアは05年から務める。3人の子を育てながら市児童館で24年間働いた経験も生かしたい、亡き級友らの無念さをも知ってほしいとの思いからだ。

 校庭で一緒にいた一人は2年後に亡くなった。進んだ舟入高では、原爆症への恐怖から後に自死する同級生もいた。証言では、自身が見た光景を基町高美術校部員が描いた「原爆の絵」3枚を写真で紹介する。悠仁さまにも見せた。「別れ際に『また来てくださいね』と言うと握手をしてくださいました」。夫と南区で暮らす。(西本雅実)

(2018年11月30日朝刊掲載)

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