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社説・コラム

『論』 戦没オリンピアン 不戦の誓い「東京」で新たに

■論説委員 下久保聖司

 「バロン・ニシ」と海外で呼ばれた。1932年ロサンゼルス五輪の馬術で優勝した西竹一選手である。華麗な手綱さばきもさることながら、競技場で見せた軍服姿から英語で男爵と称される。

 旧日本陸軍の将校だった。五輪の栄光から13年後、太平洋戦争の末期に激戦地となった東京・小笠原諸島の硫黄島で命を落とす。映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督)で描かれ、その悲運を知る人もいよう。

 この人の名を今挙げるのは、日本の「戦没オリンピアン」の生涯をたどる、広島市立大名誉教授曽根幹子さん(66)の調査に関心を持ったからだ。2度目の東京五輪が迫る中、私たちも「平和の祭典」の意味に改めて目を向けたい。

 現在判明している日本の戦没オリンピアンは計37人。リストには、やはり硫黄島で戦死した広島ゆかりのスイマーの名前も記されている。現在の江田島市出身で、バロン・ニシと同じくロス五輪の競泳100メートル自由形で銀メダルに輝いた河石達吾選手である。

 彼もまた、本土に残す妻と生後間もない息子に手紙を送った。

 <生まれたというそのことだけで、ずいぶんおやじにあれこれ考えさせ、楽しませてくれる>

 造船技師になってほしいとの夢もつづる。どんな思いで筆を執ったのだろう。

 妻も文を返す。いくら爆撃が多くても息子と硫黄島に飛んでいきたい、と。手紙はしかし、未開封で戻ってくる。わが身と重ねる遺族は他にも多いのではないか。

 競技関係者や遺族の元を訪ね、曽根さんはこうした話を拾い集めている。きっかけはスポーツ史の研究者として、広島市の被爆70年史の執筆に携わったことだった。

 「平和の尊さや、スポーツを自由に楽しめる意味を後世に伝えたいという気持ちが強くなった」

 そう語る曽根さんもオリンピアンだ。走り高跳びで76年モントリオール五輪に出場した。外国人選手との交流などから、視野が広がったという。

 世界の戦没オリンピアンの追悼や調査は、ドイツの有志を中心に進められてきた。ヒトラーによって36年ベルリン五輪が国威発揚のプロパガンダとして使われた反省がある。戦争の過ちと向き合う姿に私たちも学ばねばなるまい。

 戦没オリンピアンの定義には戦争に限らずテロなどの暴力で命を奪われた選手を含む。その数は一体どれほどか。24カ国、280人と、30年ほど前に報道された。だが実態は定かでないようだ。国際的な調査を求めたい。

 わが国では日本オリンピック委員会(JOC)などが50年代から調べ始める。当時、30人分の名簿が作られた。これをたたき台に、亡くなった場所や年齢などを曽根さんらが再検証する中で、新たな発見もあった。

 一昨年、名簿に書き加えられたのは、砲丸投げでベルリン五輪に出た広島市出身の高田静雄選手である。戦地ではなく、病床で息を引き取ったのは63年。原爆症だったという。広島の爆心地から約680メートルで放射線を浴びる。

 戦没オリンピアンに被爆者を加えたのは三原市出身の曽根さんならではの考えだろう。あの日、父は広島への出張を偶然取りやめ、被爆を免れた。その話を子どもの頃から聞き、被爆地に軸足を置く研究者だからこそ見えてくる課題もある。記憶の風化だ。「遺族や関係者が高齢化する中、聞き取りの時間はそう残されていない」

 この調査は本来、政府やJOCなども前向きに協力すべきではないか。東京五輪を巡っては戦前の40年大会の招致に成功しながら、日中戦争の影響で返上した経緯もある。今回膨らむばかりの開催費の一部でも調査支援に回し、新国立競技場に遺品などの常設展示場を設けるのも一つの手だろう。

 もしオリンピアンたちが生きていたら、どんな社会を願っていたか。五輪憲章の根本原則にはそれを示唆するような言葉がある。「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会」だ。平和憲法が築いた戦後日本にとって75年の節目に東京五輪は開かれる。不戦の誓いを新たにする場としたい。

(2018年12月6日朝刊掲載)

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