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連載・特集

[つなぐ] フリーライター ピーター・コーダスさん

祖父の収容所体験語る

 広島市南区に暮らすピーター・コーダスさん(35)は毎週末、市民団体「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」の会員などを対象に、平和記念公園周辺の碑を英語で学ぶワークショップを、ボランティアで開く。原爆供養塔や「原爆詩人」峠三吉の詩碑も取り上げてきた。「ヒロシマは平和や反戦を考えるゲートウエー(入り口)。誰でもそのきっかけをつくれる」と力を込める。

 母方の祖父で、ラトビア出身のミハイル・コーダスさん(2009年に85歳で死去)はナチス・ドイツの強制収容所で奇跡的に生き残った一人だ。ことし4月の勉強会で祖父の戦争体験を明かした。

 バルト3国の一つ、ラトビアの首都リガの音楽学校で作曲を学んだ祖父。大戦中の1944年、21歳でドイツに渡るが、ある日ゲシュタポ(秘密警察)に捕まり、ドレスデン周辺の強制収容所へ連行された。英BBC放送のラジオを聞いていたことを、何者かに通報されたのだという。

 ナチスの収容所は、ポーランドのアウシュビッツのほかにも、約2万カ所に開かれたと言われている。連行されたのはユダヤ人だけではなかった。「祖父はいきなり裸にされ、身体検査に連れ回された後、無理やり金歯を抜かれた。食べ物をろくに与えられず、正体不明のウイルスを注射される人体実験も強いられた」とコーダスさん。

 その祖父が生前、家族の前で収容所のことを口にすることはほとんどなかった。小学生時代、学校の課題で断片的に聞いた日の夜、大量のウオッカを飲んでいた姿は今でも脳裏に焼き付いている。晩年に、もう一度だけ証言をしてもらったことがある。「家族の戦争体験を今、しっかり聞いておかなければ」という思いに駆られたからだ。ヒロシマで祖父のことを紹介するのを前に、可能な限り、家族や親戚への聞き取りを重ねた。

 米ロサンゼルス近郊のサンタモニカで生まれ、大学教授だった母のキャリアに伴い、西海岸を中心に国内を転々とした。熱心な反戦活動家でもある母に、幼い頃から「核兵器は悪」ということを刷り込まれ、高校時代には反戦グループを結成。イラク戦争(2003年)に反対するデモに参加したこともある。

 ポートランド州立大へ進学し、そこでパートナーとなる広島市出身の女性と出会う。15年末に来日。翌年の原爆の日に、たまたま英語の被爆証言の会場をのぞいてHIPの活動と出合った。以来、ヒロシマの原爆や復興に関する本や資料を丹念に読み込み、知識を深めている。

 ライターとして英字紙ジャパンタイムズや観光情報のサイト向けに記事を執筆する。HIP代表の小倉桂子さん(81)をはじめ取材で被爆証言に触れる機会は多い。「アウシュビッツもヒロシマも、戦争の真の姿であり、今も同じことが各地の戦場で起こっている。どの銃弾も人類に対する犯罪だ。私たちは過去の戦争体験を記憶に留め、学び、シェアしなければならない」と言い切る。(桑島美帆)

(2018年12月17日朝刊掲載)

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