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連載・特集

毒ガスの悲劇 イーペルを歩く 第1次大戦終結100年 ベルギー激戦地

無差別攻撃の記憶 今こそ

一人一人に焦点 被害訴え

 1918年に終結した第1次世界大戦は、戦争の姿を大きく変える歴史的事件だった。軍事技術の発展で空爆や化学兵器の使用が始まり、民間人も巻き込む大量殺りくの時代が幕を開けたからだ。毒ガスが初めて本格使用された激戦地のベルギー・イーペルを訪ね、学ぶべき教訓を考えた。(森田裕美)

 首都ブリュッセルの北西約130キロ。イーペルは人口3万5千人ほどの小さな街である。15年4月22日、ドイツ軍は膠着(こうちゃく)した戦線に5千本以上のボンベを並べ、栓を開いた。入っていた塩素ガスは風に乗り、風下の塹壕(ざんごう)にいた連合国軍兵士らを襲った。1899年のハーグ条約で戦場での使用は禁じられていたにもかかわらず守られなかった。

 それどころか圧倒的威力を前に、使用を控えていた連合国軍も化学兵器で応酬する。大戦の死者千数百万人のうち20万人以上が毒ガスの犠牲になったとされる。あのアドルフ・ヒトラーもここイーペルで英軍の毒ガス攻撃に遭い、一時、視力を失う。「目は灼熱(しゃくねつ)した炭火と化し、わたしはなにも見えなくなった」と著書「わが闘争」につづる。その後ドイツが生み出した致死性ガス「イペリット」は、イーペルが語源だ。

身元不明の墓標

 悲劇を繰り返すまい―。市内や近郊には博物館や墓地などが点在し、記憶を次代に伝えるさまざまな営みが続けられている。その一つイン・フランダース・フィールズ博物館は一人一人のストーリーに光を当てた展示に特徴がある。

 毒ガス被害の実情を、戦略や歴史といった大きな文脈で説明するだけではない。既に世にいない被害者の手記や遺品を前に、役者が本人になりきって「声」を伝える映像展示もあり、目を引いた。広島に落とされた原爆の被害同様、威力ではなく「人間的悲惨」を伝えようという試みだろう。

 この地では現在も工事現場などから年間約200トンの不発弾が見つかり、負傷者も出ているという。うち3分の1は毒ガス弾だ。郊外のパッシェンデール1917記念博物館では、安全処理した不発弾を所狭しと陳列する。屋外には当時張り巡らされた塹壕を復元。中を歩いて見学することで当時を追体験させる。

 帝国主義国がぶつかり合った第1次世界大戦は、自治領や植民地など現在の100カ国以上の人々を動員した総力戦でもあった。今なお生死さえ分からぬままの人も少なくない。

 各国兵士の墓地も多数並ぶ。最大のタインコット墓地には旧大英帝国の兵士約1万2千柱が埋葬されている。身元が分からず部隊名だけ記された墓標も多く、胸が痛んだ。

2次大戦に通ず

 「日本にとっても遠い場所での過去の出来事ではない」。大戦に詳しい地元レーベン大のジャン・シュミット准教授(41)の言葉が印象的だった。「多大な犠牲を払って一度は平和を誓ったはずなのに、なぜ第2次世界大戦が起きたのか。世界中でポピュリズムが台頭し、国際協調が乱れつつある今こそ考えるべきだ」と語る。

 勝つためならと国家に総動員され、大量殺りくも是とした100年前の総力戦は、第2次世界大戦に通ずる。遠い昔の欧州の悲劇と遠ざけるのではなく、自分と地続きの出来事として捉え直す必要がある。

(2018年12月24日朝刊掲載)

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