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連載・特集

退位を前に 天皇とヒロシマ <4> 慰霊の旅

被爆者の叫びに応える

 「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い…」。天皇陛下は「即位後朝見(ちょうけん)の儀」(1月9日)で誓われた年の1989年9月9日、皇后と被爆地入りする。広島県安浦町(現呉市)で翌日に開かれる、第9回全国豊かな海づくり大会への「行幸啓」から。

即位後に詠む

 <死没者の名簿増え行く慰霊碑のあなた平和の灯は燃え盛る> <平(たひ)らけき世に病みゐるを訪れてひたすら思ふ放射能のわざ>

 翌新年にあたり発表された5首の「お歌」は、昭和天皇をしのび、2首をヒロシマについて詠んだ。即位後初の訪問でも、まず原爆慰霊碑に参拝し、88年に合併した広島赤十字・原爆病院を訪れ病室を回った。

 訪問は、94年10月2日に広島市で開幕した第12回アジア競技大会での開会宣言、翌95年5月21日に本郷町(現三原市)での第46回全国植樹祭出席と続いた。

 自民、社会両党などの連立政権は同24日、戦後50年の夏に広島、長崎、沖縄への両陛下訪問を検討していると明らかにした。やがて、海外の激戦地にも向かう「慰霊の旅」である。

 広島へは前日に訪れた長崎から95年7月27日、特別機が着く。昼食を取る中区のホテル32階で、藤田雄山知事が「広島県戦災五十年の概況」を説明した。400字詰め原稿用紙に換算すれば約9枚の内容。

 原爆による死者は、45年末までに「約14万人」と広島・長崎両市長が76年に国連へ提出した推計を紹介。救援や捜索などで残留放射線を、また放射性降下物を浴びた人々を含め、「その数は把握されておりません」。今なお被爆の実態が未解明なことを指摘し、呉や福山市などへの「都市爆撃」でも死者は2300人余に及んだと説明した。

 「概況」は、宮内庁との折衝に当たった県秘書課行幸啓班の元職員らによると、故人となった当時の課長がまとめたとみられる。

 両陛下は原爆慰霊碑に白菊を供え、県と市が92年に設けた原爆養護ホーム「倉掛のぞみ園」(安佐北区)へ。定員は当時市内三つのホームで最多の300人。体の自由が利く約190人が2階大ホールで迎えた。

「平和が大事」

 「戦争はいけません、陛下」。坂井正紀さん=当時(76)=が声を震わせると、天皇は「平和が大事です」と答えた。皇后は手を握った(中国新聞95年7月28日付)。メディアはこぞって報じた。坂井さんの半生をあらためて追った。

 「思っていたことを率直に言っただけです」。長女佐賀純子(すみこ)さん(72)=安芸区=は父の素顔をそう語る。

 長男英彦さんは被爆2カ月後に1歳余、妻英子さんは20年後に43歳で死去していた。夫は金屋町(現南区)に住む妻子を捜して召集でいた福山から入市被爆した。戦後は、新たに2児を授かり数々の職をこなす。原爆のことは口にしなかった。純子さんが高校を卒業した年、母は「あー、しんど」と洗濯を済ませて突然に倒れたという。父は悲憤を胸にのみ込んだ。

 天皇への訴えが話題になっても、坂井さんは親族にも「美智子さんの手はきれいじゃった」と話すくらい。自慢するそぶりも見せずに「のぞみ園」で過ごし、趣味の書で献立表をしたためた。右足を膝からの切断を余儀なくされた2000年に亡くなった。

 <原爆のまがを患ふ人々の五十年(いそとせ)の日々いかにありけむ> 広島・長崎「慰霊の旅」で詠んだ「お歌」である。(西本雅実)

(2019年2月8日朝刊掲載)

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