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Peace Seeds ~ヒロシマの10代がまく種(65号) 被爆した寺・神社を巡る

 広島市内には原爆の悲劇を私たちに伝えてくれる被爆建物があります。街中だけではありません。爆心地から少し離れた場所にも、爆風で受けた傷痕(きずあと)が分かる木造の建物があります。その多くは、寺や神社です。

 中国新聞ジュニアライターは今回、5カ所の寺と神社を巡(めぐ)りました。建物が全壊(ぜんかい)したか、全焼(ぜんしょう)したのは爆心地から半径2キロの範囲ですが、その円上か少し外側の建物です。原爆の話も一緒(いっしょ)に伝えています。

 原爆の記憶(きおく)を伝える寺や神社は、皆さんの身近なところにもあるはずです。それらを訪れれば、建物が無言で語ってくれる平和の尊さに気付くと思います。

紙面イメージはこちら

爆風のすさまじさ 今に

新庄之宮神社

木々が火の手遮った

 1835年に建った新庄之宮神社(西区)の拝殿は重厚感があります。そばで伸(の)びるクスノキは樹齢500年以上。ほかにムクノキもあり、これらの木々が火の手を遮(さえぎ)って神社は焼けずに残ったと考えられます。

 爆心地から2・9キロ北にあります。戦後は柱が腐(くさ)ったり虫に食べられたりし、2004年に大改修しました。被爆者で町内の代表として管理する越智茂雄さん(76)は「神社は地域のシンボル。原爆に耐えた証(あか)しとして残したい」。木々が静かに見守る中、小鳥のさえずりが響(ひび)く憩(いこ)いの空間でした。(中3平松帆乃香)

尾長天満宮

隙間・傾き残ったまま

 爆心地から北東に2・6キロ。尾長天満宮(東区)。拝殿(はいでん)に入ると戸と柱の間から外の光がもれていました。隙間(すきま)は最大で約1センチ。宮司の渡辺清臣さん(64)によると、爆風で南東へ建物が傾いた名残だそうです。

 1937年に饒津(にぎつ)神社から移された拝殿です。被爆後、戸と柱の隙間は5センチありましたが板を当てて埋(う)めました。雨漏(も)りもひどくなり、2006年に修復工事を終了。瓦を取り換(か)えましたが、傾きは完全に直りませんでした。

 境内のこま犬は戦時中の金属供出でなくなり、56年に石で復元されました。様変わりする近くの広島駅北口と比べ、「ヒロシマ」が残っています。(中2桂一葉)

明泉寺

再開発から山門守る

 爆心地から東へ1・9キロの明泉(みょうせん)寺(南区)は1921年ごろに建った山門だけが残りました。住職の明泉(あけずみ)至芳さん(69)が山門を残すかどうか悩(なや)んだのが、90年代の再開発でした。解体する案がありましたが、市の担当者と何回も話し合い、新しく造成した土地に移しました。

 残そうと思ったのは、ほかの寺を見て気付いたことがきっかけです。原爆で焼け、再建した寺では山門はほとんど建て直されていなかったのです。「原爆にせっかく耐えたのだから壊すのはやめよう」

 山門を鉄パイプで補強し、クレーンでつり上げることで南へ15メートルの現在地へ動かしました。明泉さんは「まるで風船が浮(う)かぶようだった」と思い出します。被爆建物を巡る一つのドラマ。自分も聞いていて胸が熱くなりました。(高1川岸言織)

吉島稲生神社

壊れた屋根 元に戻す

 爆心地から南に2・16キロの吉島稲生(いなり)神社(中区)は市の被爆建物に登録されていません。管理する吉島西町内会長の川口護さん(76)によると、1927年に完成した本殿が被爆したそうです。

 爆風で屋根が境内脇の水路に吹き飛び、支える木材も欠けましたが、元に戻(もど)しました。境内のクスノキやエノキも大きな被害はありませんでした。

 江戸時代からの神社を守るのは近くの人たち。改修のたびお金を出し合い、昨年も本殿の表面を磨(みが)いてきれいにしました。川口さんは「次世代へバトンタッチして原爆も伝えたい」。初詣(はつもうで)や秋祭りを通し、愛される神社を目指しています。(高1佐藤茜)

善法寺

瓦をモニュメントに

 善法寺(西区)の本堂は1936年の完成です。建物が爆心地の方を向いていたため、西に2・74キロ離れていても爆風を受けて西側へ傾(かたむ)き、天井(てんじょう)のほとんどが落ちました。

 当時5歳だった前住職の前田至正さん(79)はお寺の住居部分で被爆。寺はけが人や住まいを失った人を受け入れ、いっぱいに。亡くなった人は近くの土手で焼かれ「何とも言えない臭(にお)いが漂(ただよ)った」と振(ふ)り返ります。

 傾いた本堂は2001年の芸予地震にも耐(た)えました。09年の本格的な修復工事でまっすぐになりましたが、爆風に耐えた欄間(らんま)の一部は残り、被爆瓦(がわら)は中庭に積み重ねてモニュメントとして置いています。前田さんは「核廃絶のために物言わぬ証人として大切にしたい」と話しました。(高3松崎成穂)

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中高生の提案

継承していくために みんなの支え 大切

 原爆では、当時の広島市内にあった建物のほとんどが被害を受けました。爆心地では地面の温度が3千~4千度に達し、秒速440メートルの爆風が吹(ふ)いたとされます。半径2キロ以内では、木造の家がつぶれて燃えました。

 ジュニアライターが巡った5カ所の寺や神社は木造のまま残り、守られてきました。火災が広がった半径2キロのエリアの近くにありますが、ぎりぎりのところで残ったのでしょう。

 被爆建物は老朽(ろうきゅう)化が進んで壊(こわ)されることが多く、広島市は保存と継承(けいしょう)を呼び掛けようと、1993年から半径5キロ以内の被爆建物の登録を始めました。現在は原爆ドームをはじめ85件が登録されています。

 今回の取材では、古くから地域に根差した建物が大切にされてきたことが分かりました。それをヒントに被爆建物を残していくための方法を考えました。

会員制交流サイト(SNS)で発信する

 被爆建物を見たらインスタグラムやツイッターなどにアップし、平和に関心の低い人にも見てもらう。

ツアーを開く

 原爆ドームなど有名な場所だけでなく、立ち寄ることの少ない被爆した寺社も。

校外学習に取り入れる

 被害の痕が残る近くの神社やお寺を小学校の時に訪れる。壁新聞やマップを作り地域の掲示板に張り出す。

 私たちもしっかり被爆の歴史や人々の思いをこれからも取材して紹介(しょうかい)していきたいと思います。(高2藤井志穂、高1伊藤淳仁)

(2019年2月21日朝刊掲載)

【編集後記】
 今回の取材を通じて、原爆ドームのような有名な観光地ではなくても、取材した神社やお寺のように、被爆の痕跡を残し平和へのメッセージを伝え続ける地域のシンボルが多くあることに気付きました。個人や地域の人々が70年以上大切に保存してきたこれらのシンボルを、これから若い世代がどのように生かし、次の世代へ繋げていくのかが問われているとも感じました。(松崎)

 今回、爆心地から2キロ圏の神社を取材して、意外と身近に被爆した建物があるなと感じました。取材しなければその建物が被爆していると気がつかなかったので、「少しもったいない」と思いました。被爆した建物が身近にあるのも、私たちがヒロシマに住んでいるからこそです。原爆ドームのような有名な場所だけでなくこのような場所も、たくさんの人に知ってもらいたいです。次回から新シリーズになりますが、もっとヒロシマについて学んでいきたいと思います。(平松)

 原爆の建物被害について記事を書きました。参考にした資料は、難しい専門用語がいくつかあり、同世代にもよりイメージしやすい言い回しを考えました。小学生の頃にジュニアライター活動を始めた時は、「無理に背伸びをしなくていい。小学生の今、等身大の感覚で選んだ言葉は、難しくないからこそ伝わりやすいはず」と母にアドバイスされたのを、今でも強く意識しています。これからも、分かりやすく記事を書くことを目標に頑張りたいです。(藤井)

 今回、向かった広島駅北口は、開発が進んで新しいものばかりになっていました。しかし、少しちょっと路地裏に入り、近くの尾長天満宮に行くと原爆の跡が残っていました。そういった痕跡を見つけ、学び、発信していくことで、未来に残していけるのではないかと思いました。これまでピース・シーズを通してたくさんの事を学びました。ほとんどの取材テーマは私が知らない事ばかりでした。次の「ジュニアライターがゆく」でもどんどん積極的に取材に取り組んで行きたいです。(桂)

 ずっと昔からその土地を見守り、大切に受け継がれてきたお寺や神社。よく見てみると、原爆で破損したままの装飾や、新しいものに替えられた木材など、隠れた傷を持つ物言わぬ証人でもあります。今回、寺社にまつわるお話をたくさん聴く内に、どの建物も地域の人たちと一緒に困難を乗り越えてきて、今の姿があるのだと知ることができました。原爆の記憶はもちろん、多くの人に愛されてきた思い出も、伝えていきたいなと思います。(佐藤)

 今回被爆建物が保存されるきっかけに、市民からの要望があったことを知りました。このことを知って市民の行動によって戦争の記憶を残すことは可能だ、その例は身近なところにあると感じました。自分もその一人のはず。まだ僕はピース・シーズ創刊の頃から、ジュニアライター活動に加わっています。最終号となった今回、読み返してみると少しは自分が成長したと思う一方で、これからも様々なことを学ばなきゃいけないなと思いました。(伊藤)

 私は明泉寺を取材しました。そこで気付いたのは、住職の明泉さんが、山門を大切に思う気持ちの強さでした。原爆で焼けずに残り、その後も崩れ落ちず、寺でただ一つ残ったのが山門でした。これは「奇跡」ともいえます。さらに、再開発で、山門を残すと決意した後も、どうやったら残せるか課題は多かったそうです。そんな話を聞いて、保存しようにも悩みが絶えなかった明泉さんの気持ちが伝わってきました。ピース・シーズでは最後の取材になりましたが、これからも変わらず自分が感じたこと、考えたことをたくさんの人に伝えていこうと思います。(川岸)

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