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社説・コラム

『潮流』 1世画家の筆

■論説委員 田原直樹

 「憲兵に撃たれたワカサ・ハツキ」と題された絵を見たのは6年前である。太平洋戦争中、米国の収容所に送られた日系人の作品展だった。鉄条網に近づいた同胞が脱走を疑われて撃たれ、くずおれる。射殺の衝撃的な瞬間である。記録して告発せねば、という作者の信念が宿って見えた。

 先日、岡山県立美術館に訪ねた「小圃千浦(おばた・ちうら)展」で、絵の作者に思い当たった。井原市生まれの日本画家、小圃千浦(1885~1975年)であった。

 幼時に東北へ移り、16歳にして日本美術院連合絵画共進会で銅牌(どうはい)に輝いた。将来を嘱望されながらも古い体質の画壇を嫌った彼は、1903年に渡米する。

 生活に窮したが筆は折らず、サンフランシスコ地震の際は、いち早く惨状を描きとめた。やがてヨセミテ渓谷を描いた絵や木版画などが評判を呼び、カリフォルニア大学の教員となる。

 「地すべり」(41年)という絵が暗転を物語る。立ち尽くす人々の周りで地盤が崩れ去るさまを、荒々しいタッチで表現。自らを含め、収容所へ強制移住させられる日系人の運命が重なる。憧れた「自由の国」への失望、憤りがのぞく。

 だが体力、胆力を備えた人である。劣悪な環境の収容所の中でも美術学校を開き展覧会をしたという。

 展示終盤の「廃墟(はいきょ)」(45年)に驚いた。焦土らしき赤黒い空間に人物が2人、力なく座っている。広島への原爆投下の報に、筆を執った。「自然の力、善と生命の力が人間による破壊を乗り越える」と信じて。

 翌春、焦土に立つ「祈る人」を描く。「広島のがれきの中に草が生えたと聞いて」。さらに「調和」という作品も制作している。

 遠い地にいながら、小圃は描かずにはおれなかったのだろう。いずれも想像を巡らして筆を運んだ絵と思われるが、強く訴えかける原爆図である。

(2019年2月16日朝刊掲載)

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