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[ジュニアライターがゆく] シュモーさんの「広島の家」建設70周年

 みなさんは、米国の平和活動家フロイド・シュモーさん(1895~2001年)を知っていますか。1949年8月に広島市を訪(おとず)れ、原爆で家を失った人びとのための住宅(じゅうたく)「広島の家」を建てた人です。その第1号の建設から70周年を迎(むか)えるのを前に、中国新聞ジュニアライターは、中区江波(えば)二本松に唯一(ゆいいつ)残っている「シュモーハウス」を見学し、「広島の家」に暮(く)らしていた姉妹から、当時の思い出を聞きました。シュモーさんの足跡(そくせき)をたどりながら「紛争(ふんそう)や災害があった地域(ちいき)の人びとのことを考え、求められる支援(しえん)をしていこう」という思いを新たにしました。

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巡る

「行動大事」募金集め21戸建設

復興支援の米国人がいた

 市民グループ「シュモーに学ぶ会」代表の西村宏(ひろ)子さん(61)=中区=の案内で、シュモーハウスを見学しました。51年に集会所として建てられ、7年前に原爆資料館の付属展示施設(てんじしせつ)として再オープンしました。家を建てた人たちの寄せ書きや設計図、当時の外壁(がいへき)の一部などを見ることができます。先月、節目を前に展示をリニューアルしました。

 家を建てる際に、くぎなどを打ち付けたハンマーは、建築に参加した男性がシュモーさんから譲(ゆず)り受け、手元に大切に持っていた物です。「広島の復興を助けたい」という熱意と信念を伝えているように感じました。

 米国中西部のカンザス州の農場で生まれたシュモーさんは、幼(おさな)い頃(ころ)から、暴力や戦争はいけないと教えられて育ちました。広島の原爆被害(ひがい)は、46年に発行された米国人作家ジョン・ハーシーのルポ「ヒロシマ」を通じて知ります。

 「原爆投下は大きな罪であり、一人の人間として謝らないといけない」。そう考えたシュモーさんは「行動に移すことが大切だ」と53歳(さい)になる48年に初めて来日。翌年、再び広島を訪(おとず)れ仲間と一緒(いっしょ)に南区皆実町(みなみまち)に2棟の木造住宅を建てました。費用は米国で寄付金を募り4300ドルを集めたそうです。

 家を建てることでお互(たが)いの理解を深め、平和をつくり出そうとしたのでしょう。その後も53年まで広島を何回か訪れ、江波地区や牛田東(東区)などに計15棟(21戸)を建てました。

 シュモーに学ぶ会は、シュモーさんたちの活動を紹介(しょうかい)する冊子や絵本を作り、保育園などで読み聞かせもしています。平和を学ぶとき、原爆被害だけでなく、シュモーさんのように広島を訪れ、支援に当たった外国人がいたことを知ることはとても重要だと感じました。相手が何を必要としているのかをしっかり考え、行動に移すことを大事にしたいと思います。

聞く

元住人の姉妹

ピンクの屋根すてきだった

 「ピンクがかった色の屋根がすてきだった」「うれしくて、畳(たたみ)の上を転げまわって喜んだ」―。江波町(現中区江波二本松)にあった「広島の家」に、50年の夏から家族6人で暮らした原野家の姉妹、内山豊子さん(81)=廿日市(はつかいち)市=と小田部三恵子(こたべ・みえこ)さん(80)=東広島市=は、「わが家」との初対面を楽しそうに振り返りました。

 戦時中、関西から吉島羽衣町(よしじまはごろもまち)(現中区)の祖父母宅に引っ越(こ)した原野家は、原爆で住む家を失いました。そして、牧師だった父、進さんが入院していた市内の病院に、シュモーさんがボランティアで訪れたことがきっかけで、入居が決まりました。

 「父は、毎週日曜に近所の子どもたちを家に招いて聖書(せいしょ)物語を読んだり、賛美歌を歌ったりした」と三恵子さん。夏休みには、一生懸命作業をするシュモーさんの姿(すがた)を見ました。「いつも仲間の中心にいて、信念を持っている人に見えた」と言います。進さんはまた「シュモーさんの思いを絶対残さんといけん」と、手紙の差出人住所には必ず「シュモー住宅」と書いたそうです。

 「シュモーさんのおうちは戦後の大きなプレゼント。背後(はいご)には米国の方々の募金(ぼきん)があり、知らない人に助けられて今がある」と豊子さんは力を込めます。この日、宛名や差出人住所に「シュモー住宅」と書かれた封筒5点を原爆資料館に寄贈(きそう)しました。

私たちが担当しました

 中1中島優野 中2桂一葉 高1斉藤幸歩 高3沖野加奈 高3池田穂乃花 高3松崎成穂

(2019年3月18日朝刊掲載)

【取材を終えて】
 シュモ―さんが「自分にできることから始めた」という話を聞いて、私も身近なことから考えていこうと思いました。でも、今考えつくことは、支援物資を送るということしかありません。これから今の世界の状況を知り、誰がどこでどんな物を必要とし、どんなことを望んでいるのかを知っていきたいです。また、そのことを人に伝えられるようになりたいです。(中1中島優野)

 自分の国がとても罪が重いということを考え、日本人とコミュニケーションを取ったり、広島に来て支援をしたりしたシュモーさんの勇気がすごいと思います。どこの国の人でも差別することなく、受け入れて仲良くなろうとする気持ちに感動しました。私も米国や中国、韓国の友達とコミュニケーションを取り続け、広島や長崎の原爆のことを教えるだけでなく、相手からも情報などをもらうことが大切だと思いました。新聞記事などで紛争地や被災地の状況を正確に把握して、学校の友達と話し合うなど、常に問題意識を持つよう心がけたいです。(中2桂一葉)

 原爆資料館を訪れるときに、一緒にシュモーハウスに行くことも大事だと思います。困った人たちを助けたシュモーさんの活動から、平和を伝えられるからです。現代の人に原爆のことを伝えるときに、恐ろしさだけでなく、シュモーさんの活動を伝えられたら、婉曲的に原爆はこういうことだったんだと学ぶ姿勢にもなります。現在、高校の合唱部で、仲間と一緒に病院や保育園でボランティアで歌っています。毎年楽しみにしてくれている人がいるので、高校生だからこそできることを続けよう思います。(高1斉藤幸歩)

 広島の人びとへの謝罪や、人種とか性別とか関係なく、「みんな同じ人間じゃないか」とシュモーさんならではの心がこもった贈り物だから、当時の広島の人はうれしかったと思うし、アメリカ人に対する思いもそのとき変わったのではないかと思います。一貫して決意を曲げず、広島の人びとのために何が必要なのかを真摯に考え、働きかけるシュモーさんの姿に感銘を受けました。私も、戦争や災害の被害者たちが、どんな環境下で何を必要としているのかをその都度見極め、自己満足で終わらせない支援のあり方を考えていきたいです。(高3沖野加奈)

 シュモーさんのように、周りに流されずに自分が正しい道を進めるような人になりたいと思いました。西村さんのように、人々に勇気や希望についてシュモーさんの思いを伝えている方もいることを知って、今後の平和活動が活発になるのでは、と思いました。「広島の家」を建てた仲間たちは、国籍や宗教を越えて広島に集まり、平和を創っていました。大学生になったら、どうやったら対立を乗り越えられるかというのを、自分の中で見付け、将来は、それを提案できるような職業につきたいと思っています。(高3池田穂乃花)

 アメリカが犯した罪を真摯に反省して申し訳ないという気持ちで広島の被爆者を支援したシュモーさんと他にも家を作った仲間たち知って、とても勉強になりました。平和について学んでいく中で、原爆の被害だけでなく、シュモーさんのような支援活動を行ってくださった方々がいるということを知ることが、すごく重要になっていくと思う。シュモーさんが、頭で考えるだけでなく、実際に、広島に来て、人々と交流したように、私も災害が起こった地域とか、紛争があった地域、現地に実際に行ってみて、そこの人たちの交流を通して多くのことを学んでいきたいです。4月から大学生になるので、実際に海外に行き、行動することを大事にしたいと思いました。(高3松崎成穂)

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