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連載・特集

原爆資料館 その歩み <中> 語られざる展示

「平和利用」唱え 米提供

 広島市は、原爆資料館の今回の大規模なリニューアルを「3度目」とする。資料の劣化を防ぐ改修工事から再開した1975年、隣の平和記念館を改築して資料館東館を設けた94年に続くとの位置づけだ。

 しかし、展示更新は開館の翌56年に、58年にも大掛かりで行われた。原子力の「平和利用」を紹介した。米政府が提供した関連資料の常設展示は以降も続いた。なぜ、だったのか?

 復興を率いた浜井信三市長は、占領下に始めた翌48年の平和宣言で、原子力を「恒久平和と新たなる人類文化創造」にと呼び掛ける。手記集「原爆の子」を51年に編んだ長田新広島大教授は、序で「原子力の平和的利用」を「『偉大な善をもたらす』道」と著した。

 原爆を共に体験していた。悲惨を知るからこそ原子力を「平和」「産業の発展」に生かせという訴えは被爆地で早くから起こる。市井の願いも強かった。肉親の無残な死に意味を見いだそうともしたからだ。  だが、東西冷戦とは無縁ではいられなかった。

 「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子)」。アイゼンハワー米大統領は53年に国連で演説し、「原子力平和利用博覧会」を西側陣営で開く。

 日本では55年11月に東京で始まり名古屋、京都、大阪を巡回する。広島での原子力平和利用博は56年5月27日、記念館(5165平方メートル)と資料館(2838平方メートル)で幕を開けた。

被爆資料を移設

 展示の被爆資料は市中央公民館へ移した。併設は「博覧会の趣旨が変わる」と米側の求めに応じた(中国新聞夕刊56年3月22日付)。県、市、広島大、米広報庁部門の広島アメリカ文化センター(ACC)、中国新聞社が共催した。

 実験用原子炉の実物模型や、子どもの夢をかき立てる原子力飛行機・列車などの模型、放射性物質をガラス越しに女子学生が操作する「マジック・ハンド」の実演…。入場者は22日間の会期で約10万9500人をみた。資料館の56年度入館者は約22万8千人だった。

 続いて、資料館は「広島復興大博覧会」(58年4月1日~5月20日)で「原子力科学館」に充てられる。

 市の要請で米政府が10点を寄贈し、「魔法の手」や放射能測定器などの資料を展示する。57年に「原子の火」を茨城県東海村でともした日本原子力研究所の活動も紹介した。市人口は40万人台となり、復興博は経済発展をうたった。

 米側が寄贈に込めた狙いを明かす一連の公文書が残る(米国立公文書館蔵)。

 「資料館の収蔵品は原爆を投下した者に対して不快な感情を抱かせる」と捉え、「平和利用の展示は…原子力に対する建設的な見方で和らげる」(駐日米大使館58年1月29日発)。ロバート・マクヘンリーACC館長が、渡辺忠雄市長と交渉に当たっていた。

必要な外部の声

 原子力「平和利用」の展示は、返り咲いた浜井市政でも続く。いつ終えたのか? 中国新聞67年5月7日付には「このほど全部取り除かれた」とあるが、資料館「30年のあゆみ」(87年編)は常設展示・撤去について全く触れていない。

 今回の更新では、外国人の被爆資料を常設展示する。館長を3月末で退いた、志賀賢治さん(66)は「ぶれないことが大事だ」と運営を注視する外部機関の設置を説いた。紆余(うよ)曲折を経てきた資料館。その機能がさらに深まるとしたら識者のみならず入館者、市民の声や支えによるだろう。(西本雅実)

(2019年4月21日朝刊掲載)

原爆資料館 その歩み <上> リニューアル

原爆資料館 その歩み <下> 核廃絶へ問われる真価

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