×

連載・特集

原爆資料館 その歩み <下> 核廃絶へ問われる真価

新たな「再出発」

 「原子爆弾による被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え…核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与する」

 広島市は被爆50年を控えた1994年、「広島平和記念資料館条例」(55年公布)を全面的に改正し、原爆資料館の設置目的を明確にする。隣の平和記念館を東館として一体化もした。

 被災資料の収集・保管・展示、調査研究。当初からの業務に加え、資料の「供用」や「平和学習、被爆体験の継承」を図ることを盛り込んだ。それまでは「陳列館にすぎない」ともやゆされていた。収蔵展示に関する図録すらなかった。

 図録を立案する、叶真幹さん(64)は94年の市人事異動で東館地下の収蔵庫に入り驚いた。「何がどこにあるのか? 資料がまさに眠っていた」。職員は条例改正の前年まで嘱託を含め7人。予算も乏しかった。

 専任学芸員2人が95年、嘱託で配置され自身も収蔵庫にこもり、約1万2千点に及んだ資料を整理する。「空欄」交じりの旧台帳と照らし、1点ごとに分類番号を付け、寄贈者の名前・連絡先、被爆時の状況を記し、写真を添付。検索カードの作成と整備から資料を取り出せる仕組みが3年がかりでつくられ、データベースの構築へと進んだ。

 被爆状況が不明だったり、亡くなっていたりした寄贈者の資料は、あらためて関係者を捜し文献からも「空欄」を補う。この地道な作業は、95年に採用された佐藤規代美学芸員(46)ら2人が当たり、新たな寄贈資料の聞き取りも後輩と共に続ける。毎年の「新着資料展」は96年に始まった。

委託で機能強化

 資料館の機能は、市が98年に再編した財団「広島平和文化センター」へ管理・運営を委託したのを機に強まる。「『平和行政の後退だ』と批判されましたが、人の配置も予算も融通が利くようになった」と、館長を97年から9年間担った畑口実さん(73)は顧みる。図録刊行に至る知られざるエピソードも挙げた。

 秋篠宮ご夫妻が全国都市緑化祭出席を兼ねて97年10月、資料館を初めて見学する。案内役を務めた翌日、「子どもらに渡したい」と展示書籍を求める伝言があった。「懸案の予算要求がすんなり通りました」

 「ヒロシマを世界に」(127ページ)は99年に刊行された。収蔵資料を基に被爆の実態や廃虚からの歩みを英語併記した図録は、原爆関連では異例の累計販売12万6千冊余に上る。インターネットでの「平和データベース」発信や、市民が館内・平和記念公園を案内する「ピース・ボランティア」も99年に始まった。

 現在、被爆資料約1万8千点(英語版1200点)や「原爆の絵」4600点(同1100点)、「原爆記念文庫」を受け継ぎ集める文献・雑誌6万6千点の書誌情報などを発信する。ボランティアは203人を数える。学芸員は増え4月からは8人体制にある。

外国人客相次ぐ

 入館者は、オバマ前米大統領が訪れた2016年度は173万人をみた。外国人は訪日旅客数増で18年度は全体の28・6%に。

 にぎわう資料館だが、今はボランティア案内に務める畑口さんはもどかしさも覚える。「原爆は70年たっても人間の心身を苦しめる悪魔の兵器。核廃絶に近づいている、役目を果たしていると言えるだろうか…」。父を奪った原爆により母の胎内で被爆した。

 原爆資料館は世代や国境を超えて集い、考える場でもある。設置者の広島市はもとよりヒロシマの力が問われている。(西本雅実)

(2019年4月22日朝刊掲載)

原爆資料館 その歩み <上> リニューアル

原爆資料館 その歩み <中> 語られざる展示

年別アーカイブ