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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 沖縄-遺骨と不発弾

■特別論説委員 佐田尾信作

「昭和」さえ終わっていない

 「私たちの畑仕事では『失礼します』と声を掛けて、地に眠る人を驚かせない。それに、つるはしをうかつに振るってもいけない。不発弾が埋まっているかもしれません」

 沖縄戦の証言者、翁長(おなが)安子がかんで含めるように語る。前沖縄県知事翁長雄志(たけし)の叔母に当たる人。太平洋戦争末期、軍部は県民に根こそぎ動員を強いて米軍との激しい地上戦に巻き込んだ。今なお数多くの壕(ごう)やガマ(洞窟)に遺骨が取り残され、不発弾発見の報道も途切れない。

 「7年前、1年間かけて不発弾発見の新聞記事を集めたら、4日に1回のペースで見つかりました」  やはり沖縄戦の証言者、中山きくが言う。遺骨にせよ不発弾にせよ、沖縄では「今」の問題だ。2月下旬、広島経済大岡本貞雄ゼミのフィールドワーク「オキナワを歩く」に同行し、2日間、約40キロの道のりを文字通り歩いて語りを聞いた。

 このたびで13回を数える取り組みだ。そのルートはといえば、那覇市の市街地から沖縄守備軍が陣取った首里、県庁壕があった識名を経て沖縄陸軍病院壕が保存される南風原(はえばる)町へ。さらに本島最南端の糸満市まで丘陵を越え、1泊を挟んで10カ所を超す壕や碑を巡る。この間、中山が分けてくれた黒糖は例外として、学生たちは「カロリーメイト」と「ポカリスエット」だけでしのぐ。

 筆者が南部戦跡を訪ねるのは初めてではない。しかし、このたびは印象がまるで違う。道中、スコールに遭うとかっぱを着てなおも進むが、足元の赤土はすぐにぬかるんで滑りそうになる。「ハブに注意」の立て札が目に入ると、若者のように「マジか」と声に出したくなった。

 修学旅行で訪ねる壕やガマだけではない。県庁壕は独特の墓所が集中する識名の丘にひっそりあった。ここで内務官僚出身の知事島田叡(あきら)や警察部長荒井退造が執務し、南部で殉職した。詳細は元読売新聞記者田村洋三の「沖縄の島守」(中公文庫)に譲るが、1990年代半ばまで「幻の壕」だったことに驚く。

 県民保護に心を砕いた島田は、守備軍の南部への撤退に抵抗した。戦場になった中部から南部に避難する県民が再び戦禍に巻き込まれるからだ。このたびの案内役の住民が「首里で戦闘を終わらせていれば」とつぶやく。沖縄戦の犠牲が拡大する分水嶺(れい)はここにあったのか―。壕の闇の中で、しばし熟考してみる。

 遺骨や遺品から戦争の現実を考えさせるのも「オキナワを歩く」の趣旨である。壊滅した旧陸軍歩兵89連隊の兵士の認識票をじかに見た。壕の遺骨収集に伴って発見され、連隊の戦死者を供養する糸満市の浄土寺に預けられている。名前は特定できないが、弔いのよすがになろう。学生たちは南風原から1時間半かけて歩いてこの寺にたどり着いた。

 糸満の宿では遺骨収集ボランティア南埜(みなみの)安男の話を聞いた。壕で遺骨や装備の残骸のほか、水筒、文具、印鑑などの遺留品を見つけて持ち主を捜す地道な作業を続けている。その日々に「終わり」は見えない。人類学者楢崎修一郎が「骨が語る兵士の最期」(筑摩書房)の中で「遺骨は決して土に還(かえ)っていない」と力説している意味が分かってくる。

 筆者は80年に初めて沖縄本島を旅した。路線バスを乗り継ぎ、民宿を泊まり歩く気ままな旅だったが、那覇の民宿のあるじが必ず読めとばかりに「鉄の暴風」を手渡してくれたことを鮮明に覚えている。過酷な沖縄戦の代名詞になった証言記録だが、当時は知らなかった。

 「オキナワを歩く」に参加した学生たちは、このたびの経験をどう生かすのだろう。彼らは貴重な証言を聞き、普通では入れない場に身を置いた。メモや写真に記録する姿、証言者に話し掛ける姿をほとんど見ない点は物足りなかったが、あの時、あの人に話を聞いたという記憶は何十年先になってもきっと残る。

 間もなく「平成」が「令和」に変わる。だが、軍部の暴走が国内外に塗炭の苦しみをもたらした「昭和」を問う営みは終わらない。遺骨収集と不発弾発見が今なお続く、沖縄の現実からそう思う。(敬称略)

(2019年4月25日朝刊掲載)

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