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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 原爆マグロの記憶 核への憤り 埋もれさせるな

■論説委員 田原直樹

 もめた末に、魚市場などが豊洲へ移転してしまった東京・築地。寂れているかと思ったら、場外市場には活気があった。外国人観光客らでごった返す。すしや海鮮丼でマグロを食べさせる店が人気らしい。

 雑踏から100メートルほど歩いた旧市場入り口に、かつて1枚のプレートがあったのを覚えている。65年前ここで起きた「原爆マグロ」騒動を記した金属板。旧市場の解体工事が進む中、プレートはどうなったのか。

 見ると、旧市場を囲む工事フェンスに張ってある。しかし行き交う人は少なくないのに、誰一人見向きもしない。

 1954年3月1日、太平洋・ビキニ環礁での米国の水爆実験によって静岡県焼津市の第五福竜丸は被曝(ひばく)した。船が取ったマグロやサメの一部は、築地に届くが放射能を検出。汚染魚は各地で見つかり、魚を敬遠するパニックが日本中で起きた。

 「放射能てえバイキンがよ。アメ公の水爆から飛び出して魚ん中へはいりこんで、それを食うと死んじまうつてんで、誰も魚を食わねえんだそうだ」「魚河岸(かし)なんざあ亡(ほろ)びちまうのに一年もかゝらねえやな」

 築地で働く石松がたんかを切る。宮本幹也の小説「魚河岸の石松 完結篇(へん)」の一節に騒動がうかがえる。

 正義感が強くてけんかっ早く、女性にモテる石松が騒動を巻き起こすシリーズ。54年6月刊「旅情篇」の巻末で、早くも原爆マグロ騒動がほのめかされ、9月刊「完結篇」では石松が立ち上がる。

 魚河岸のデモ隊を率いて国会へ。議事堂によじ登り、「水爆実験即時中止せよ!」と訴える幕を垂らす。さらに首相と直談判しようと私邸に忍び込み、枕元に書き置きを残す。「アメリカへ行つたら、他のことはどうでもいゝから、水素バクダンの実験だけはやめさせるようにケツをまくつて話して来てくれ」

 ビキニ事件は衝撃を持って報じられ、その年、死の灰を扱った評論や詩、科学映画が作られた。原爆マグロによる築地の動揺や消費者の魚離れもまた、娯楽小説・映画のモチーフとされるほど深刻だったのだ。

 ドタバタ劇が展開する小説だが、痛快である。人気を得たらしく、すぐに映画化された。米国に物申せとべらんめえ調で迫る石松は、国民の憤りを代弁したのではないか。今の米国追従とは隔世の感がある。

 原爆マグロは旧市場入り口辺りに埋められたらしい。そこに碑を建て後世へ伝えようと、第五福竜丸の元乗組員大石又七さん(85)を中心とする市民団体「マグロ塚を作る会」が20年ほど前に取り組んだ。

 学校など講演先で大石さんは子どもに10円募金を呼び掛け。300万円が集まり石碑・マグロ塚を作る。プレートは築地に設置を許されるが石碑は都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島)そばに仮置きとなる。

 「石にマグロ塚とだけ刻んだのは後世の人が疑問に思い、事件を知るきっかけにしたいという大石さんのこだわり」。展示館の主任学芸員、安田和也さんが、入院中の大石さんの思いを代弁してくれた。

 第五福竜丸は数奇な運命をたどり展示館に収まる。船を守るシェルターとして二枚貝を模したという館の脇にエンジンが置かれ、マグロ塚もある。落ち着いたようだが、やはり築地でなくてはならないそうだ。

 「船で魚を管理する冷凍士だった大石さん。命懸けで取ったマグロが捨てられた不条理や実験への憤りは今も強い。原爆マグロが埋まる地に石碑を建てたいんです」

 東京五輪期間中の駐車場とするため旧市場は解体が進む。その築地で今、プレートが辛うじて事件を物語るが、工事終了後は果たして。

 マグロ塚を作る会は3月1日、石碑の築地移設を求めて、6千筆超の署名を都知事と都議会議長に提出した。7月には集会を予定する。

 23年前の発掘では、マグロは土に返ったか、骨も見つからなかった。築地の原爆マグロの記憶、核への憤りだけは埋もれさせられない。

(2019年5月30日朝刊掲載)

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