×

ニュース

放影研移転 事実上の「一択」 負担合意は不透明

 24日に詳細が判明した放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の移転を巡る調査報告書は、将来的に研究を続けるならば、広島市が提案する市総合健康センター(中区)への移転を事実上選ぶべき「一択」として示したといえる。市がセンターへの早期移転を迫る有力な論拠となり得る。(水川恭輔)

 報告書は、建物の改修よりも移転か新築を提言した。延べ床面積の減少などを不安視する見方もあったセンターへの移転を「可能」とする一方、ほかの候補は示さなかった。費用を抑えたい日本政府は「新築は困難」の姿勢だけに、政府と放影研は、センター移転の検討を本格化するとみられる。

 ただ、日米両政府が負担に合意できるかを中心に実現は不透明さが残る。1993年には市が先行取得した広島大工学部跡地(中区)への新築・移転構想がまとまったが、財政負担面で米側が難色を示し、凍結状態となった経緯もある。

 93年の構想で想定された建設費用は50億~60億円。当時との単純比較はできないが、既存建物への入居に切り替えた今回も約61億円がはじかれた。多額の公金投入には、研究の将来像を放影研と日米両政府が示すことも欠かせない。

 実際、47年に設けられた前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)は当初、軍事目的が色濃く、「治療よりも調査が優先された」と不信感を抱く被爆者は少なくない。一方で広島、長崎を拠点に約12万人を対象にした研究はほかに類を見ず、広島市も研究機関としての役割を評価する。

 昨年、初経と同時期に被爆した女性ほど乳がんの発症率が高いとの調査結果が発表された。核兵器が人間に及ぼす実態が被爆から70年以上たっても完全には解明されていない中で、非人道性を示す科学的証拠を積み重ねることは、被爆地の「核兵器なき世界」の訴えにも寄与し得る。被爆地の声に応える移転や研究構想を含めた将来ビジョンの設計と早期実現は、被爆国の日本と原爆を投下した米国の両政府の責務といえる。

<ABCC/放影研の組織改編や移転を巡る主な動き>

1945年  8月 広島・長崎に原爆投下
       9月 日米合同調査団が発足
  46年 11月 米トルーマン大統領が米学士院と学術会議に被爆者の長期的調査を指令。10日後           に4人の専門家が広島入り
  47年  3月 広島赤十字病院内に原爆傷害調査委員会(ABCC)を開設
  48年  1月 国立予防衛生研究所(予研)広島支所がABCC内の研究に加わる
  50年 11月 広島ABCCが比治山公園に移転開始
  52年  4月 日本が独立
  58年  7月 成人健康調査を開始
  75年  4月 ABCCと予研を再編改組し、日米共同運営方式の財団法人放射線影響研究所が発           足
  86年     広島市が中区千田町の広島大工学部跡地を移転先として先行取得
  93年     放影研が新施設の建設計画をまとめる。米国側が財政難を理由に難色を示し、議論           は凍結状態に
2001年  5月 被爆2世の健康調査が始まる
  06年 10月 被爆医療関連施設懇話会が、市中心部への移転を柱とする地元要望をまとめる
  08年  6月 放影研の第三者機関「上級委員会」が、被爆者の追跡調査などを「少なくとも25           年継続すべきだ」との最終報告
  16年 11月 市が市総合健康センターへの移転案を示す

(2019年6月25日朝刊掲載)

関連記事はこちら

年別アーカイブ